◎今月のテーマ『聖書が示すクリスチャン像?』
クリスチャンがいかなる姿となることを聖書の神は求めておられるのか?
人格において、行動において、信仰において、知識において、死に様おいて。
伝道するということはキリストを伝えるという漠然とした業(クリスチャン人口を増やすという)でよいのか?
「ああ、私の幼な子たちよ。あなた方の内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなた方のために産みの苦しみをする。」(ガラテヤ4:19)
パウロは何をもって「キリストの形」と言ったのか?
「それは聖徒たちを整えて奉仕の業をさせ、キリストのからだを建てさせ、私たちすべてのものが神の子を信じる信仰の一致と、彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで至るためである。」(エペソ4:12-13節)
では「まったき人とはどんな人なのか? キリストの満ち満ちた徳の高さにまで至る」とはどういうことなのか?
もしそのようなクリスチャン像を育てる使命があるとすれば、伝道者自身がその模範を示さねばならない。
《プリンターシップ》福音書に記されている主の3年半の記録は「このようにあれ!」という神よりの企画書なのだろうか?
「キリストの形」を実現してくださるのは聖霊(御霊)である。
「けれども真理の御霊が来るときには、あなた方をあらゆる真理に導いてくださるであろう。」(ヨハネ16:13)
では御霊の働きをいかにして伝えることができるか?
福音宣教の根本問題について考察し、いのる。
①「自分の十字架を負って従うとは?」(ルカ9:23)
②「しかし、私はあなた方に言う。敵を愛し、迫害するもののために祈れ」(マタイ5:44)愛における実践?
③「信じる者には永遠の命がある」(ヨハネ6:46)
「それはあなた方が信じるようになるためである。」(ヨハネ11:15)
「また生きていて私を信じる者はいつまでも死なない。あなたはこれを信じるか?」(ヨハネ11:26)
「もし信じるなら神の栄光を見る…」(ヨハネ11:40)
信仰あるクリスチャンとして!
④ジョン・ウェスレーの宗教改革はクリスチャン像を示した聖霊運動であった。「キリスト者の完全」→動機の完全、信仰えい満、全き愛、全き献身、自我の磔殺、キリストのように、全き信仰、などの言葉が用いられた。いわゆる「聖化」(きよめ)の教理である。
⑤レイモンド・エドマンの「人生の訓練」は実践的クリスチャン像を志向している。
⑥教会の弱体化とクリスチャン人口の減少とこの「聖化の教理」はどのようにリンクしていくべきか?
⑦教会の数的、組織的、質的成長を求めるとき、聖書のクリスチャン像は高度すぎるのか?レベルを下げたらクリスチャンではないのか?救いはないのか?
⑧聖霊はいかに働かれるか?いかに求めるべきか?
⑨感謝聖餐式