2021.11.14

テーマ「主を誇る道」

聖書 第二 コリント  10章7〜18節

 

おはようございます。先週に引き続いて第10章を学んでいます。そのテーマは「肉に生きてはいるが、肉によって戦っているのではない」(10:3)です。

聖書はどの部分を読んでも、世界の全ての問題を包含しています。コリント教会の問題も、今日の世界のキリスト教会の問題に通じ、そればかりではなく人類が持っている問題に通じているのです。

伝道者パウロは彼の信仰について攻撃を受けたのではなくて、彼の容姿について攻撃を受けたのです。キリストに属する者たちのすることであろうかと思いますが、今日においても外面や、地位や、学歴や、家柄や、これまでの業績などによってものを判断し、区別する愚かなる肉の道が教会にもあります。

人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会ってみると外見は弱々しく、話はつまらない」(10:10)

これに対しパウロは伝道者として誇るべきことがあると反論しようとするのですが、私たちの誇るべきものは「ただキリストのみ」と言ってのけるのです。

ここで使われている「誇る」という言葉は、英語ではboastと訳され、「自慢する、鼻にかける」と言うような言葉です。教会の中ですら、働きを自慢したり、自分の力を誇ったり、それによって人を見下したり、支配したりすることがあるのです。これが肉の思いです。また他の人を見て自分を貧しいと思ったり、劣っていると自己卑下して落胆することがあるとすれば、これも肉の思いです。

現代社会は格差社会と言われます。ですから極端に富めるものと、極端に貧しいものが存在します。一部の高学歴のものが役人となり、また社会の高い位置についているとすれば、また多くのそうでない人々は安い賃金で働く労働者となっています。それはキリスト教会の中においても存在する格差です。聖霊によって満たされ、イエス・キリストの十字架の愛に裏打ちされたキリスト者は、信仰に優る尊いものはないという真の価値観を持たなければなりません。コリント教会は、クリスチャンではあるが肉の性質を生々しく持っている集団の象徴です。このような現実的な性質から清められなければなりません。ただキリストを愛し、キリストのために生きる喜びと感謝に満ち溢れて、その他のものは目に入らないようなクリスチャンでなければなりません。

 

「誇るものは主を誇れ」(10:17)といったパウロの言葉は、エレミヤ9:23、24から来ています。

主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富めるものはその富を誇ってはならない。誇るものはこれを誇りとせよ。すなわちさとくあって、私を知っていること、私が主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っているものであることを知る事がそれである。私はこれらのことを喜ぶと、主は言われる」。

 

パウロはまた第一コリント1:29、30でこう言っています。

「それは、どんな人間でも、神の御前に誇ることがないためである。あなた方がキリスト・イエスにあるのは、神によるのである」。さらにガラテヤ人への手紙第6章14節で、ユダヤ教の割礼を誇る人たちに対してこう言っています。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない」

 

クリスマスを間近にして、飼い葉おけの中に誕生して下さった主を思います。ゴルゴタの十字架の上で最も弱いものとなられた主を思います。

 

クリスチャンにとって、また教会の運営において最も恐るべき事は「肉の支配」です。十字架の愛から目を離すことのないキリスト者でありたいと願います。最も謙遜な生涯を貫きましょう。

神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰