テーマ「キリストの真実」
聖書 第二 コリント11:1〜11
おはようございます。共に聖書を開くことができますことを感謝いたします。しかし今日の箇所は伝道者パウロの自己弁明、愚かと思えるほどの言い訳の数々でどのように理解して良いか戸惑うほどです。
彼が建てあげたコリント教会に訪れた別の指導者たちが、キリスト信仰だけではなくユダヤ教の知識や習慣も必要であると語ったのでしょう。イエス・キリストに捧げる純潔な花嫁を育てたつもりでありましたが、その上にいくつものシミをつけられてしまったのです。パウロの反論もわかりますが、第一コリント13章で愛の本質を語っている伝道者が、それほど言い訳をして良いのかという疑問が湧いてきます。
結論から申し上げるならば、クリスチャンは自分の信仰をはっきりと述べ、必要ならば徹底的に反論することも許されていると理解すべきでしょう。その条件として「キリストの真実」を心に宿さなければならないと語られています。
既にお話しした宗教改革におけるマルティン・ルターの信仰は、国家的な裁判において断罪されることとなります。しかし彼は「我ここに立つ」と単なる知識や、権力や、金銭によるのではなく信仰によって立っていることを大胆に語りました。現代においても、聖書信仰を歪曲した教理を語る団体があります。私たち自らその過ちを犯すことがないように、パウロのように明確に自らの信仰を述べていかなければならないと教えられます。
「あなた方に重荷を負わせまいと努めてきたし、今後も努めよう。私の内にあるキリストの真実にかけて言う。この誇りがアカヤ地方で封じられるような事は決してない」(11: 9、10)
「真実」は神のご性質です。祈りの最後につけるアーメンは「真実」という意味です。パウロが書いたローマ人への手紙からテトスまでの記事に、少なくても27回用いています。これは私たちの信仰にとって「真実」であると言うことがいかに大切かということを意味しています。
さらに「キリストの真実」という時三つのことを教えられます。
①自分のためではなく、神と人とのため
②決して変化しない(裏切らない)
③約束を実行する(約束の成就)
信仰生涯においてしばしば「キリストの真実」を胸に抱いて、議論しなければならないことがあります。祈りながら反論しなければならないことがあります。聖霊の助けによって正しい決断と発言と行動ができますようにと祈ります。
クリスマスは神の静かな反論であり、十字架は神の愛の反論であり、復活は神の決定的な反論です。闇の世の主権者と人間の罪に対して、神はイエス・キリストを立てて反論しておられるのです。
今週も神の恵みと祝福があなたの口の言葉と行動の上に共にありますようにお祈りいたします。
小田 彰