テーマ「私の時は御手ありあり」
聖書 詩篇31:1-24
詩篇31篇はよく知られている30篇と32篇の間にあってあまり注目されない詩篇かもしれません。しかし5節の言葉がイエスキリストの十字架上の臨終の最後の言葉であるために、実は大変重要な役割を持っているのです。
やはりダビデのどのような苦悩の中から書かれたかということについてははっきり解りません。しかしスコットはBC 1060年としていますし、サウル王から迫害を受けていた時代ではないかという事は想像されます。
神様はダビデの研ぎ澄まされた感性を用いて3000年後の私たちのために聖書をかかせました。
(1-8)神への信頼と救いの願い
(9-18)苦しみの中からの嘆願
(19-24)神の恵みに対する賛美
このように分けることができます。ダビデの深い苦しみの中から出た言葉とは言え、3つの言葉が特に深いメッセージとして伝わって来ます。
①「私は、わが魂を御手にゆだねます」(31: 5)彼は神の助けを求め、敵を滅ぼしてくださいと叫びながらも、「委ねます」という言葉で信仰を表しました。この詩篇の中で彼は1000年後に現れるメシア、イエスキリストの苦難を思い起こさせるような深い嘆きを経験しました。多分イエスキリストは詩篇31篇を暗記して、口ずさんでいたと思われます。そして十字架上の最後の言葉として「父よ、私の霊をみ手にゆだねます。」(ルカ23: 46)と言われました。
どんな叫びも、どんな祈りも、「委ねます」という言葉で葛藤は完結してしまいます。
②「私の時はあなたの御手にあります」(31: 15)私の時とは、過去、現在、未来に関わる時です。それは自分の人生であり、自分に与えられた時間の全てでもあります。悩みに遭遇したときに、自分の全ては神の手の中にあるのだと納得できたならば幸いです。死の時を恐れる必要はありません。神の手の中にあって定められているからです。
ダビデの記録を読みますと、少年時代羊飼いであった時も、国のリーダーとして将軍となった時も、後に国王として君臨した時も、いつも神の御手の中で生かされていることを意識していたと思われます。
③「すべて主を待ち望むものよ、強くあれ、心を雄々しくせよ」。(31: 24)
祈っても祈っても良い結果が見えない時にも、神は真実であって、必ず祈りに答えてくださるのだと言う信仰が「待ち望むこと」を可能にするのです。この詩篇が苦難の中から書かれたとしても、その結論は
「強くあれ、心を雄々しくせよ」であったと言う事はなんとすばらしいことでしょうか。
5節の御言葉が主イエス・キリストの臨終の言葉であったとするならば、詩篇31篇は、単なる苦しみの中から生まれた素晴らしい詩というだけではなく、見えない悪魔の力に対する戦いの勝利の詩篇であるということに気付かされます。
あなたの人生に襲い来る悪魔の力に対して、「委ねて」「待ち望んで」勝利して下さるように祈ります。神の祝福が豊かにありますように。
小田 彰