テーマ「悔い改める日まで」
聖書 詩篇 32:1〜11
2月17日よりレント(四旬節)に入りました。
キリストの受難を思い心を整える季節です。
イエスキリストの十字架の赦しの前に罪を悔い改める救いの道をお話しします。
①詩篇32篇はダビデのマスキールの歌と言われます。
教えとか教訓とかという意味です。
彼の失敗と罪ゆえに神様からお叱りをいただいた経験をもとに心を開いて悔い改めることの大切さを語っています。
「その咎が許され、その罪がおおい消されるものは幸いである」(32:1)
原文では「幸いなものよ」と言う書き出しです。
人間の幸福は物質的な豊かさや、健康や長命、家族や友達に囲まれていると言う事だけではありません。
聖書は心の奥底にある罪が許され、罪の呵責や心の傷が癒されることにあると語っています。
②「私が自分の罪を言い表さなかったときは、ひねもす苦しみうめいたので私の骨は古び衰えた」(32:3)
良心の呵責を持ちながら、語ることができず、心に包み隠そうとすると、表情が暗くなり、健康まで害してしまうものです。
ダビデの人生は辛い事はあっても、いつも祈ることができたのでそのような悩みはその都度解消されていました。
しかしこのたびは、自己中心的になり、神に祈ることを放棄し、神との交わりを断絶したのです。
その内面的苦しみは、彼の肉体的苦しみにまで及びました。
③「私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった」(32:5)
ついにダビデは自分のありのままの姿を神様に告げました。
隠すことなく悔い改めたのです。
何か返済をするとか、犠牲を捧げるとかではなくただ心を開いたとき、神様の恵みが戻ってきました。
心が解放され、安らぎが帰ってきたのです。
祈れるようになりました。
④詩篇32篇の学び
1)BC1034年、バテシバ事件を預言者ナタンに責められ、悔い改めた時。
2)[故意の罪]を犯した瞬間、自己中心となり、神を無視したのです。
3)4世紀の神学者アウグスチヌスは愛読し、壁に書きつけて毎日読んだと言われています。彼の名著は「告白録」
ダビデは常に戦争に行くときには先頭に立って戦いましたが、このときばかりは城に留まり、水浴しているバテシバを見つけ、召し抱えてしまいました。
その上に戦場にいた夫ウリヤを呼び戻し、その手に手紙を託し、ついに彼を殺してしまったのです。
王様ですから何でもすることができたのですが、彼の心に神の恵みを失ってしまった時、生活の全てが暗闇に陥れられてしまいました。
この表情をレンブラントが描いています。
包み隠そうとする心を開いて悔い改めた時、彼にもう一度光が戻ってきました。
⑤5節に罪について3つの表現があります。
「罪」「咎」「犯した罪」あるいは「そむきの罪」、これは誰の心にもあるのです。
ある神学者は「心の中に黒いものが3つある。
それを一つ一つ摘み出したら救われるのではなく、ありのまま心を開いたときに、神はそれを許し、白い布で覆ってくださるのです」と言いました。
⑥「もし自分の罪を言い表すならば、神は真実で正しい方であるから、罪を許し、すべての不義から清めてくださる」(ヨハネ第一の手紙1:9)
この自分の罪を言い表すという事は「白状する」と言う意味ではありません。
神の愛を感じ、感動して、感謝して心を開き、ありのままの自分で祈ることなのです。
ダビデの時代にはイエス・キリストの十字架はありませんでしたが、今日私たちには、黒いものを心の中に持ったまま、しかしイエスキリストの十字架によって全てを許し清めてくださるのです。
このような経験が人生において最も幸せなことなのです。
人は心が解放される時、肉体も自由になり解放されます。
このような幸せに皆様が導かれますようにお祈りしています。
小田 彰