2021.5.30

テーマ「あなた方の喜びのために」

聖書 IIコリント1:23〜2:4

 

「私たちは、あなた方の信仰を支配するものではなく、あなた方の喜びのために共に働いているものに過ぎない。」(IIコリント1:24)

 聖書の素晴らしい点は、神から語られるだけでなく、神の僕たちが葛藤し、祈り、叫び、神と語り合っていることをありのままに記録していることにあります。

 

 紀元50年頃、パウロはコリントを訪問し福音を語り始めました。

たちまち教会が出来上がりました。

1年半の伝道の後若いリーダーたちに後を託して旅に出ます。

その後エペソに3年間滞在し活発に伝道しました。

しかしコリント教会の内情については心配が絶えませんでした。

その中にパウロに反対するもの、道徳的な罪を犯す教会のリーダー、世俗的習慣を教会の中に持ち込むものがいました。

パウロがその罪を叱責する手紙を送ったために、ますます反感を買っているというのが、コリント人への第二の手紙の背景です。

 

 

 言いたいことを率直に言えないジレンマの中にあるパウロの姿が見えています。

この手紙はパウロの書いた手紙の中で最も感情的に揺れ動いていて整っていない手紙と言えるでしょう。

しかしそれだけに彼の人間性が鮮やかに描かれています。

私たちの現実生活には、思ったことをはっきり言えない事はしばしばあります。

肉親に福音を伝えたいと思いながら、なかなか口に出して言えないものです。

同じ教会の中の信徒同士でありながら、何か心を開いて話せない関係がしばしばあります。

無意識のうちに避けてしまうような人間関係です。

場合によっては牧師と信徒の関係においても、心を開いて語り合えない場合があります。

パウロの手紙は、そのような心の動きを自ら体験しながら、心の底から祈りを捧げているのです。

 

 

 ペンテコステの聖霊経験をしたパウロでさえも、同じ教会の弟子たちとの関係において涙を流して祈らねばならないほど苦しみ悩みました。

聖霊に満たされ清められるという事はこのような時にその真価が発揮されるのです。

 

パウロは5つの言葉をもって、対人関係を豊かに保ちながら互いに成長する道を語っています。

 

①寛大であるように(1:23)

②信仰を支配せず

③共に働く者として(1:24)

④教会全体の喜びのために(2:3)

⑤愛をもって(2:4)

 

 主イエスキリストの最後の晩餐において弟子たちの足を洗った出来事を思いおこします。

ヨハネによる福音書13章。

「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭き始められた」(13:4、5)ペテロの番になって、「主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか」と言った時、イエスは彼に答えて言われた、「私のしている事は今あなたにはわからないが、後でわかるようになるだろう」(13:7)

 

 これは文語訳聖書では「今知らず後知るべし」と言われる言葉です。

 

 

自分がリーダーであると思い上がっているペテロに、真のリーダーはへりくだって仕えるものである事を伝えようとしました。

そして迫害の時代を迎える弟子たちに、互いに許し合い支え合うことの証を教えようとされたのです。

この出来事の意味はまさに「後知るべし」であって、2000年経って私たちがその恵みを受けているのです。

十字架に掛かられたイエスキリストの弟子たちは、裏切り者であり、無責任者であり、自己中心的なものたちばかりでした。

それをご覧になり、涙の祈りをもって彼らのために執りなしてくださったのです。

 

 

「夜は終夜(よもすがら)泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る」(詩篇30:5)

 

長い信仰生活の中においては、祈るしかない時があります。

言葉に表すこともできず、自分が正しくてもそれを正当化することもできず、じっと待ち望んで祈る時です。

その時聖霊のみ助けがあります。

パウロが寛大でありたいと言った時、それは待つことなのですね。

 

 

 兄弟姉妹の現実的な信仰生活の中における人間関係において、この御言葉が支えとなり光となりますように祈っています。

小田 彰