テーマ「慰めに満ちたる神」
聖書 IIコリント1:1〜7
今日から、コリント人への第二の手紙の学びに入ります。伝道者パウロの個人的な思いをたくさん込めた手紙です。旧約聖書ではダビデという人物の個人的な葛藤や、戦いや、悲しみや悔い改めの歌を学びました。なぜ神はこのように1人の人の個人的な言葉を聖書の中核に置いたのかと言う事は大きなテーマです。新約聖書では迫害者サウロが改心して伝道者パウロとなって語った言葉が聖書の中核に収められています。1人の人との会話を通して神の意思を人類に伝えるという手法はダビデの場合と同じです。
パウロはコリント人への手紙を実際は4通書いているのではないかと言われます。パウロが土台作りをした教会が成長しているのですが、クリスチャンとしてふさわしくない指導者たちがいました。また伝道者パウロが、ペテロたちのような使徒(①キリストから直接教えを受け派遣された指導者、②キリストの復活の証人、③初代教会の監督となるべき人)ではないと主張する一派の存在がありました。さらにユダヤ教から、また異教社会からの迫害がありました。これらの問題の解決のために彼は手紙を書きました。第二コリントは最後の手紙であり、慰めに満ちた手紙です。
「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神、哀れみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めてくださり、また、私たち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである。」(1: 3、4)
この時パウロ自身も病気を持っていたのではないかと思われます。教会の内外の迫害の中にあって彼は「慰めに満ちたる神」を信じていました。第二コリントの手紙の中に特徴的な言葉は「慰め」です。
①いかなる時にも神の慰めを受けている事は彼の力の源でした。
②彼が神の慰めによって強く立つことができる目的は、患難の中に苦しんでいる人たちを励ますためでした。
③彼が福音のために戦い、人々を励ますことの報いは、「キリストによって慰めが満ち溢れるからである」(1: 5)。
さて、ここで用いられている「慰め」という言葉は、パラクレーシスというギリシャ語です。共にいて下さると言う意味です。神の慰めとは、神が常に共に歩んでくださること、共に苦しみをになっていて下さる事です。言葉を変えて言えば「1人ではない」ということです。
私たちにとっても、人生には苦しみは絶えません。またコロナ禍にあって
国も、教会も、個人も苦しんでいます。信仰を持っているお互いにとっては、決して孤独ではなく、慰めに満ちた神が共にいて下さるのです。そこに私たちの生きるエネルギーがあります。
今日は母の日ですが、1908年から始まった母の日運動はミセスジャービスというクリスチャン夫人の信仰がその原点です。平和を求め、戦争で傷ついた兵士たちを慰め、多くの未亡人やその子供たちを集めて励ました人。24年間にわたり日曜学校の教師として聖書を語った人。彼女が亡くなって1年目の記念会の時にお嬢さんのアンが来会者にカーネーションを配ったことがきっかけとなりました。1914年には米国の休日として祝われるようになり、全世界に広がりました。日本には森永製菓の森永太一郎が紹介しました。
母の日のメッセージは共にいる愛と言っても過言ではないでしょう。傷ついた人々に寄り添ったミセスジャービスは今日も私たちに、慰めに満ちた神によっていただく慰めによって、人々と共に歩む道を示しているのだと思います。
今週も神の恵みが共にありますように。 小田彰