テーマ「悔いのない救い」
聖書 第二 コリント7章5〜16節
「神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死を来たらせる」(7: 10)
コリント人への第二の手紙の難解な部分は、2章13節から7章4節までが、他の手紙であるか、あるいは他の文書から挿入されているように見える点です。
3年間伝道したエペソから迫害を逃れてトロアスに向かったパウロは、そこでコリントから来るテトスを待ったが、到着が遅れ、気が気でなくてマケドニアに向かった。そこでコリント教会の人々の悔い改めと、パウロに対する信頼の情を届けるテトスと再会した。あまりにも人間的で弱々しいパウロの姿がここによく表されています。彼が前回送った「涙の手紙」と言われるコリント教会の誤ったリーダーたちに対する厳しい手紙に、教会がどのように反応したかという不安があったのです。
しかしその背景がどうであったかではなく、そこから上記の御言葉がほとばしり出てきたことに聖書の素晴らしさがあります。
人が神の言葉を聞いて心刺され、悔い改めに至る時、そこには言葉に表せない悲しみがあります。しかしその悲しみや苦痛は尊いことなのです。ある意味で人間の最も美しい涙と言うことができましょう。
回心とは深い悔い改めとイエス・キリストの赦しに対する信仰が求められます。言語のシューブという言葉は「向きを変える」を意味し、ナーハムは「悲しむ」を意味します。
信仰生活において、自分の罪に気づき流す涙は祝福の種(宝石)となるのです。
この御言葉が信仰のない人々に語られているのではなく、教会の中の人々に語られていることに注目しなければなりません。現在の日本の教会のような小さい世界ではなく、ローマカトリック教会のような全世界的な組織、あるいは今日の資本主義世界全部を対象に考えたら良いと思います。人や組織の断絶や分裂が起こった時、そこには人間の傲慢が背景にあります。解決の唯一の道は、へりくだって悔い改め、和解を求める祈りを捧げることです。
ピリピの教会においてもパウロとの間に摩擦がありました。そこで彼はこう言っています。「キリストイエスにあって抱いているのと同じ思いを、あなた方の間でも、互いに生かしなさい」(ピリピ2: 5)
一人一人はそれぞれキリストを信じているのに、他の人を排斥する場合があります。これは人間の持っている性の故であるからでしょう。
最近1967年に私が回心したとき、ビリーグラハム博士が語った言葉について調べています。その中で人間性についてパスカルの言葉を度々引用しています。
「人間は考える葦である。自然の中で最も弱いものであるが、それは考える葦である。」(「パンセ」)この考えるとは単にものを考えるとか研究するという意味ではありません。神の前に自分の罪に気づき、悔い改める心を意味しています。「傷ついた葦を折ることなく」(イザヤ42:3)と書かれているメシヤの預言から来ています。
教会とは単なる社交の場であったり、楽しい交わりの場ではありません。それは礼拝の場ですが、その本質は深い罪の意識(認罪)を持って悔い改めの祈りを捧げ、キリストを見上げる場です。聖霊の働きをそのように受け止める時、教会は涙あふれる和解の場となります。それは神の国の前味と言うことができるでしょう。
今週も神の言葉があなたの心に深く語ってくださいますようにお祈りしています。
小田 彰