「信望愛主」
テーマ「聖なる者となって」
聖書 第一 ペテロ 1章13〜21節
新年に、神様はペテロ第一の手紙から「生ける望みを抱かせ」てくださるとお約束をくださいました。キリストを私たちの罪の身代わりとしてくださり、死から復活させてくださった神は、私たちをいかなる逆境の中にあっても守り、支え、導いてくださるお方です。ここに私たちの希望の根拠があります。
さて今日の13節以下では、この希望に立つ私たちが「聖なるもの」であるようにと勧められています。
神がモーセに語った、「私が聖なるものであるから、あなた方も聖なるものになるべきである」という旧約聖書の御言葉を引用しています。それはレビ記11: 45、19: 2 はじめ各所に登場する言葉です。エジプトから導き出したお方は神であって、自分たちの力ではないこと。またその地の汚れた偶像礼拝から聖別されるべきこと等を意味しています。
「聖」はヘブル語でカドーシュと言いますが、本来「分離」を意味する言葉です。聖なる神と俗なる私たちは決して交わりを持つことができないのです。その断絶を埋めるために遣わされたお方がイエスキリストであり、そのために十字架におかかりになったのです。
私たちが自らを律し、最大限の厳しいルールに従って生きたとしても、神の「聖」に近づくことができません。神様が聖なる交わりに招き入れてくださったから私たちも聖なるものとなることができるのです。ですからクリスチャンとは聖なる神の世界に入れられた人々なのです。
試練の激しい時代に生きた人々に、神に属する道をしっかりと選ぶようにペテロは求めています。しかし迫害の中に妥協を選んだ人たちもありました。教会の中において、自分の欲望の思うままに生きた人もいました。神の言葉に従わず、自分の権力によって教会を支配しようとした人たちもありました。
神様が求める「聖」に反することが3つあります。
①自己過信自己依存
②迫害を恐れての妥協
③欲望に支配されて神に反すること
さて、試練に会うとき、あなたが神に属しているか、この世に属しているかを明確にしなければなりません。あなたは聖別された神の子供たちなのです。
「あなた方が先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちるものによったのではなく、傷も、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(1: 18、19)
神に属する者という点において純粋であるならば、聖なるものと言われることができるのです。そこに力の根源があります。いかなる迫害にも恐れることのない強い精神力が与えられます。
そこで私たちに与えられているコースを走り抜きたいと思います。ペテロはこう言っています。
「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエスキリストの現れる時に与えられた恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでなさい」(1: 13)
かつてロンドンの街の中でビルからビルにロープを張って綱渡りをしていた曲芸師が言っていました。「私はロープを渡り始めた瞬間から、足の感覚と平行棒の感覚と向こう側の目標に向かって100%集中しています。一瞬の緩みも許されません。そうしなければ生き延びることができないからです。」この完全なる集中力こそ「聖なる人」の条件なのです。
今週も、そして今年も、神様から目を離さず、耳をすまして御言葉に聞き、集中力を持って信仰生活を歩んでまいりましょう。それが勝利の条件です。神様の祝福が豊かにありますようにお祈りしています。
小田 彰