「信望愛主」
テーマ「新しい生きた道」
聖書 へブル 10章19〜25節、ルカ 2章8〜20節
「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなた方に伝える。今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。」(ルカ2: 10、11)
ベツレヘムの野原で羊の番をしていた羊飼いたちに現れた天使はこのように語りました。誕生する赤子が人類の救い主であること。またこのお方を「主」とすべきこと。それは大いなる喜びのおとずれであることを伝えました。
救い主に出会う事は、誰にとってもかけがえのない大いなる出来事でした。ユダヤ教的なヘブライ人にとっては、イエス・キリストは「祝福の大祭司」であり、救いをもたらし、永遠の命を与える大祭司でした。ご自身のお体を聖所とし、私たちに「新しい生きた道」を開いて下さいました。
「神のみ前には、あらわでない被造物は一つもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この方に対して、私たちは言い開きをしなくてはならない。」(ヘブル4: 13)
これは私たちにとって「死」と、死後の「裁き」を意味しています。私はイスラエルに行った時に、アラブの人たちが神の前に恐れを持って生きていることを見ました。現世における生き方が、神の審判の前に裁かれる日が来るということを日々感じながら生きている姿を見て唖然といたしました。我々日本人はその点はいい加減なところがあります。
1960年12月25日、中学1年生の時、私は洗礼を受けました。その月の初めにある土曜日の夜、今北海道で牧師をしている兄とこたつに入って話していた時でした。突然死の恐怖が襲ってきました。「僕が今日死んだらどうなるんだろう?闇の世界に葬られるのだろうか?どうしたら救われるだろうか?」と聞いたのです。兄は、「自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、あなたの罪を許し、その心を清め、永遠の命を与えてくださる。」(第一ヨハネ1: 9)と、適切な聖書の箇所を開いてくれたのです。
なぜそのような心境になったかと言うと、その少し前に、私が通っていた教会の日曜学校の子供が、小学2年生だったと思いますが、たまたま日曜学校を休んで、子供の自転車で新しいバットとグラブを持って野球に行ったのです。京成電鉄千葉駅前の広い交差点の角で信号待ちをしていた時でしょう。バスの後輪にひかれて死んでしまったのです。その日、私が日曜学校から帰る時、その子の血が道路にべったりと残っている角を通りました。幼い子供が、日曜学校を休んで野球に行ったというだけで、神はそんな厳しい裁きを下すのであろうかと思ったとき、鳥肌が立つような恐れを感じました。
「私は神の裁きの前に立つことができるか」という強い恐れが洗礼を決意させたのです。13歳の時とは言え、今日もその時の心の動きを鮮明に覚えています。私は「祝福の大祭司イエス・キリスト」を必要としていたのです。その年のクリスマスは私にとって本当のメリークリスマスとなりました。
その後も何度も信仰の迷いを経験し、その救いの体験を忘れてしまったこともありました。しかし聖霊は、今日まで無知で愚かな私を、「新しい生きた道」に、常に導いてくださいました。
クリスマスとは、「死」と「裁き」の前に立つことを得させてくださる神の恵みのしるしなのです。
それが救い主イエス・キリストの誕生であります。
「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである」(第一ヨハネ4: 15)
ハレルヤ。
小田 彰