「信望愛主」
テーマ「ヤコブとエサウ」
聖書 ヘブル 11章20〜21節、創世記 27章1〜17節
ヘブル人への手紙の記者は第11章で、信仰とは神の前に生きた偉大な人々にならって生きることであると語っているようですが、20節のアブラハムの息子イサクの系図からは、この信仰の流れを次の時代に伝えていくために、神が一方的なご計画を進めていく強引さを見出します。
「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の御旨だけが堅く立つ」(箴言19: 21)
アブラハムの信仰は、イサクとヤコブに引き継がれました。尊い器、神第一の信仰者にのみ継承されました。この系図はきたるべき救い主キリストの祖先となるべき人々の系図だからです。
さてイサクからヤコブへ信仰が受け継がれた経過については多分に首をかしげるような不思議な表現が記録されています。人間の野心や愚かさをも神は用いてご計画を遂行されました。
「信仰によって、イサクはきたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した」。(ヘブル11: 20)
アブラハムとサラの間に生まれたイサクは親戚のリベカと結婚しました。リベカもなかなか子供ができず悩みましたが、「妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった」(創世記25: 21)と書かれています。
「彼女の出産の日が来た時、体内には双子があった。先に出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それで名をエサウと名付けた。その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名付けた。」(創世記25: 24 -26)
「エサウは巧みな狩猟者となって野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。イサクは鹿の肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。」(25: 27-28)
幼い日の逸話が描かれています。
野原で走り回って腹を空かせて帰ってきたエサウは、ヤコブが台所でレンズ豆の煮物を作っているのを見て、「それを私に食べさせてくれ」と求めますが、ヤコブは「まずあなたの長子の特権を私に売りなさい」と取引を迫ります。エサウはその時ただ食べたいという肉の思いで、長子の特権を軽んじました。
さて時は過ぎて、父イサクは年老いて目もかすみ見えなくなり、死を意識して、息子エサウに遺産を残し、祝福の祈りをしようと決心しました。「私の好きなおいしい食べ物を作り、持ってきて食べさせよ。私は死ぬ前にあなたを祝福しよう」(創世記27: 4)と言ったのです。
母リベカはその親子の会話を立ち聞きし、エサウが鹿の肉を得ようと野原に出かけている間に、ヤコブに変装させ、母親が作った煮物を持って父のもとに行って、祝福を受けるようにと画策しました。
@このリベカの行動は現代のクリスチャンは首をかしげますね。
そして目が見えない父イサクが、騙されてヤコブを祝福し終わった時、野原の狩からエサウが帰ってきます。しかしすでに父からの祝福は奪われてしまっていたのです。「エサウは声を上げて泣いた」(27: 38)と書かれていますが、再び神の恵みの祝福を受ける事はできなかったのです。
このことについて新約聖書は書いています。
「また一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなた方の知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔い改めの機会を得なかったのである」(ヘブル12: 16、17)
さて、このイサクとエサウの確執が後のイサクの悔い改めへと導かれ、その後イスラエルと言う名前をいただくことになります。
あまりにも人間的なやりとりの中でアブラハムの信仰が後継されたということが何を意味しているのでしょうか。
この系図の中にはたくさんの人々の名前があります。しかし神は御心に沿わない者たちを抹消し、尊いものを見失わない人、注意深く神の御声を聞く人、長く待ち望んで忍耐ができる人を選ばれました。エサウのように動物的で、欲望にだけ支配され、一時的な必要のために永遠の価値ある特権を放棄してしまうような人に、人類のためのキリストを生み出す民族の祖先となる特権は与えることができませんでした。
ここに「神の選び」と言うテーマがあります。
さて信仰とは、未来につながっていく神のご計画に沿うことなのです。それには何が最も大切なことであるか、何が俗悪なものであるかを見分ける霊的な目が求められています。
イエス・キリストは言われました、「まず神の国と神の義とをを求めなさい。そうすればこれらのものは全て添えて与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩うな」(マタイ6: 33、34)
今週も最も大事な神との交わりを優先して生活しましょう。そこには神の平安と祝福とが与えられることでしょう。
小田 彰