「荒野花咲」
テーマ「聖なる選び」
聖書 イザヤ 6章1〜13節
新年の1週間をどのようにお過ごしになられたでしょうか?
イザヤがメシアの預言者と呼ばれる理由は、イスラエル民族が世界を救うメシヤの民となり、この民を通して大きな驚くべき祝福がいつかは神によってあらゆる民族にもたらされるという考えを彼が強く持っていたからです。
イザヤと言う名前は「ヤハウェ(主)の救い」いう意味です。イザヤが神の言葉を宣べ伝えたのはBC 740〜690の50年間です。今日のテーマは、イザヤが神より預言者としての召命を受け、即座に献身を表明したことです。
私たちは神より招かれ、新しい使命が与えられています。それに対して、命をかけて献身をもって応えることが信仰です。
イザヤの召命と献身の記録から、私たちの新年の志を整えたいと思います。
イザヤが神の栄光に触れたのはBC 740年の事でした。信頼する信仰の王ウジヤが死んだ年と書かれています。ウジヤはヘブル語で「神はわが力」という意味です。
①ウジヤ王の死んだ年、私は主が高く上げられたみくらに座し、その衣の裾が神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの6つの翼を持っていた。その2つをもって顔をおおい、2つをもって足を覆い、2つをもって飛びかけり互いに呼び交わして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。その呼ばわっているものの声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。(イザヤ6:1〜4)
旧約聖書で用いられた偉大な人物たちは、不思議な神との出会いを経験しています。ウジヤ王が死んだとき、国民の内にも動揺があり、若きイザヤ自身も大きな不安に襲われたのでしょう。私たちもイエス・キリストに出会った時、少なからず動揺と不安の中にあったのではないでしょうか。心が飢え渇いたとき、神はお語りになります。
②この時セラピムの一人が火箸をもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、私のところに飛んできて、私の口に触れて言った、「見よこれがあなたの唇に触れたのであなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」(6:6、7)
ここで、御使いが火をもって彼の唇に触れたという事は、彼の言葉が聖別されると言う意味です。預言者として王の間違えを指摘する時、その言葉を紛らわすことなく、はっきり宣言しなければなりません。私たちも信仰者として、言葉が聖別されていなければなりません。
③そして神の召命を聴きます。
私はまた主の言われる声を聞いた、「私は誰をつかわしましょうか。誰が我々のために行くだろうか」。その時私は言った、「ここに私がおります。私をおつかわしください」(6:8)
神の言葉を語ると言う事は恐れ多いことです。嫌われ、避けられ、それでも言わねばならないことがあります。次々と信仰のない、世俗的な王たちが立つ時、イザヤの責任は非常に重いものでした。好んで選べるような道ではありませんでした。そこに彼の「献身の覚悟」があったのです。
さてクリスチャンというのは、この世にあっては弱いものや貧しいものに心を向けます。小さい事でもできる事はしてあげます。しかし誤っていることについては、どんな権力者に対してもはっきりとものを言う人たちです。そのために召されているのです。
「あなたがたは地の塩である。もし塩の効き目がなくなったら、何によってその味が取り戻されようか」(マタイ5:13)
「私たちはキリストの御手の中に砕かれなければ、この世の飢えた人々のために、食物となることができない」。(J.R.ミラー)
私たちはこの世にあって、魂の飢えた人々のために真のパンとなるために召されました。
牧師や伝道者になるから献身するのではありません。すべてのクリスチャンは献身して、この世にあって地の塩としての役割を果たすのです。このような召命観と献身を新年に新たにいたしましょう。
そこに神の祝福の源があります。
小田 彰