「荒野花咲」
テーマ「道を備えよ」
聖書 イザヤ 57章14〜21節、エペソ 2章11〜16節
イザヤ書57章14節からは、福音の中心テーマです。
「土を盛り、土を盛って道を備えよ、我が民の道から、つまずく物を取り去れ」(イザヤ57:14)
40:3にも同じ表現がありますが、それはバビロンから脱出する人々の道の備えです。しかしここでは心の内にあるつまずき、石ころを取り去って清くなれと言う事ですね。なぜなら神がまもなく来られるからです。これはきたるべきイエス・キリストを暗示しています。
イザヤの神観は①天上におられ②永遠の存在であり③そして聖なる方 の三つの嘱性と言われ、次のように表現されています。
「私は高く、聖なるところに住み、また心砕けて、へりくだる者とともに住み、へりくだるものの霊を生かし、砕けたるものの心を生かす。」(57:15)
ヘブル語の「へりくだる」は、心の問題ではなくて、現実に卑しめられるような試練に苦しむことを意味しています。高いお方が、心砕けて、へりくだる者とともに、住み、生かしてくださるとは、まさにイエス・キリストの事ではありませんか。
そのお方は、
「私は限りなく争わない。また絶えず怒らない。霊は私から出、命の息は私が作ったからだ。」(17:16)
ここに平和を願われる父なる神の御心が表されています。
イスラエル民族が、自己中心に走り、不信仰によって偶像礼拝をし、罪を犯したとしても、私はそれを知った上で、もはや争わない、怒らないと言うのです。そしてイザヤ書は全世界の人々に対してもこのメッセージを伝えています。
「遠いものにも近いものにも平安、あれ、平安あれ、私は彼を癒そう」と主は言われる。(57:19)
「遠いもの」とは、異邦人であり、「近いもの」とはイスラエル人のことでしょう。
伝道者パウロは、この部分を引用しながら、「ところがあなた方は、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである」。(エペソ2:13)
今日本語で聖書を読んでいる私たちではありますが、イエス・キリストの十字架を通して、神が聖書を通して語っておられる世界に近いものとされたのです。これはイザヤ書の預言の成就であり、私たちにとっては大きな神の恵みです。
さて、神と人とは深い断絶の谷によって隔たっていました。人間は神と断絶するときに、心に傷ができ、またあれすさみ、その結果、罪を犯してきました。神から離れた人たちの間には、また断絶があり、その結果、人と人との争いが絶えませんでした。神との交わりの回復は、神の側からの哀れみと赦しによって可能となりました。イエス・キリストが遣わされたことによって交わりは回復し、十字架と復活によって、断絶は癒され和解されました。
このイエス・キリストによる和解の福音を知らなければ、神との交わりを回復することができず、その結果、永久に争いは絶えないのです。十字架の福音こそ、平和の道です。
「十字架によって、二つのものを一つの体として、神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。(エペソ2:16)
現代においても「敵意」が拭い去られないために、争いは限りなく続いています。このメールを発信している今、イスラエルとパレスチナハマスとの戦いが始まろうとしています。北方には、ヒズボラというテロ組織があり、その背後にはイランの財源と武器があります。
どう祈ったら良いか分からないような現実ですが、敵意を滅ぼしてくださるイエス・キリストの十字架が示され、人々の間に和解が作り出されますように祈りましょう。
世界の平和が聖書の御言葉によって実現しますように。
小田 彰