「荒野花咲」
テーマ「主の聖日を尊べ」
聖書 イザヤ 58章11〜14節、マタイ 12章1〜16節
イザヤ書58章は「天に届く祈り」と「まことの礼拝」の2つのテーマについて語っています。前回の天に届く祈りにおいては、信仰の動機が問われています。そして今日の「まことの礼拝」においては信仰の表現が問われているのです。
「もし安息日にあなたの足をとどめ、我が聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と唱え、これを尊んでおのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、その時、あなたは主によって喜びを得、私はあなたに地の高いところを乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から与えられたものである。(イザヤ58:13.14)
安息日を守るという事は、天地創造の初めから示された神の掟であり、特に選民イスラエルの義務であると考えられてきました。安息日は神のものであり(出20:10)、神とイスラエルとの契約関係のしるし(出31:13)です。具体的には仕事をやめる日であり、それを礼拝の日とする事でした(アモス8:4〜8)。
イエス様の弟子たちが、空腹のために麦の穂とって食べたことが、パリサイ人の非難を受けた記事があります(マタイ12:1〜8)。律法の精神は「あわれみであって、いけにえではない」(マタイ12:7)と語られ、安息日が人のためにあることを宣言されたことが、まさにイエスの福音であります。そしてイエスは安息日の主であると言われたのです。
このユダヤ人社会の律法主義は、その生活の全てが礼拝であることの証でした。それは大変尊いことです。現代に生きるクリスチャンたちも、その生活の全てが神の前に歩む礼拝であります。その証として日曜日礼拝を守っています。
さて、ユダヤ教の土曜礼拝から、キリスト教の日曜礼拝へと変わったのは、キリストの復活記念日を礼拝としたことです。ユダヤ教の教会でクリスチャンたちも礼拝していましたが、その生き方の違いと信仰の違いを明確にするために、日曜日礼拝に変わっていきました。ローマのコンスタンティヌス大帝(AD306〜307)がローマ法を制定した時に明文化されました。
そこで安息日はその精神が問われることになります。それは「主の聖日」であり、「喜びの日」であります。
それでは私たちにとって礼拝の本質とは何でしょうか?
「聖別された時を捧げること」です。できれば、時、場所、形式を定めて、兄弟姉妹と共に守ることが望ましいですね。しかしそれは義務ではなく、喜びであり、それぞれが神と自分との約束として定めるべきことであり、それを守ることによって、そこから命と力とが与えられます。
しかし聖日を大事にしようとするときに、必ずいろいろな問題が生じてきます。家庭的な問題や、健康の問題、仕事の問題があるでしょう。ですから、それは戦いであり「守るべきこと」となるのです。そこで教会としての礼拝と、どんなときにも変わることなく続けられる個人としての礼拝が確立されなければなりません。
礼拝の三要素は、
①賛美(信仰告白)
②祈祷(執りなしの祈り)
③みことば(聖書)
です。
教会における礼拝は、この世に対する証の共同体ですから、兄弟姉妹と心をひとつにして守ります。社会の人々から見て、明らかに礼拝を捧げる人々であることを表現することが大切です。
さて、現代のクリスチャンにおいても、この聖日礼拝を守ることによって神様から受ける恵みは大きいのです。渇ききった時代に生きながら、うるおいに満ちた生き方をすることができます。心と体の疲労から速やかに回復し、命に満ちた前進を続けることができます。その歩みは天国に行くその日まで変わらず続けられるものです。それは栄光の生涯です。
「主は、常にあなたを導き、良きものをもってあなたの願いを満ちたらせ、あなたの骨を強くされる。あなたは、潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」(イザヤ58:11)
今週も神様の恵みが豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰