「荒野花咲」
テーマ「シオンの石」
聖書 イザヤ 28章14〜22節、第一ペテロ 2章4〜10節
イザヤ書28章は再び挿入的な言葉です。北王国イスラエルの首都サマリヤ陥落の予言、そして迫りくる南王国ユダの危機的予言に対して、ユダの指導者たちは、耳を貸すことなく、エジプトに援軍を求めます。預言者イザヤは排斥されても、無視されても、神の言葉の真理を伝えようとします。
生き延びる道は、人、物、金と言われるような地上の助けではなく、神の守りに対する信仰です。信仰があれば、どんなに無力なものであっても、勝利を得ることができます。神様の力は、この世の何者よりも強いからです。
「信ずるものは慌てる事は無い」のです。さて、ここに有名な言葉が出て参ります。
それ故、主なる神はこう言われる、
「見よ、私はシオンに1つの石を据えて基とした。これは試みを経た石、堅く据えた尊い隅の石である。信じるものは慌てる事は無い。」(28:
16)
シオンとはダビデの都であり、今日エルサレムのある丘であります。そこに置かれた石は、信仰の土台石です。それは後に現れるイエス・キリストを指しています。「試みを経た石」とは、十字架の苦しみを通過したお方のことです。
石材によって建築される宮殿や神殿には、選ばれる石と捨てられる石があります。しばしば神のご計画においては、捨てられた石が尊い神の国の建築において隅の首石となるのです。
イザヤはダビデ王以来の信仰第一の選択に帰るように指導者たちに勧めます。この「尊い礎石」のメッセージは新約聖書に伝えられています。
「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である」(第一ペテロ2:
4)
まさに、人に捨てられ、十字架にかけられ、抹殺されたお方が、人類の救いのためになくてはならない礎石となられたのです。
「それにより頼むものは、決して失望に終わることがない」(第一ペテロ2:
6)
今から2700年以上前にイザヤによって示された1つの隅の首石は、2000年前、ゴルゴタの丘で十字架にかけられたイエス・キリストであることが示され、そして今日も私たちの最後に頼るべきお方、キリストとして示されているのです。
ここに「捨てられた者が、神の国において尊い役割を果たす」と言う真理が語られています。
明治の初めに、アメリカに留学した沢山保羅は、1876年に帰国し、時の政府から高い地位が約束され、月給150円が提示されました。当時の一般的給与の十数倍という金額でした。しかし、彼はこれを断り、アメリカにおいて体験したイエス・キリストの救いを宣べ伝えるために、信徒数11人、月給わずか7円の教会の牧師となりました。彼はこの世の成功者の道を捨てました。いや、当時の社会から捨てられたと言っても良いでしょう。この沢山牧師の選択は、今日関西における優れた梅花女学院を創設することになります。彼自身が選んだ道というよりも、神が彼のために選ばれた道であったのです。
今日議会制民主主義というのは多数決原理によって動いています。しかし、信仰者の人生においては、多数決ではなく、人気や流行に左右されず、神の言葉を選ぶべきです。しばしば、それは極めて少数派です。キリスト者にとって人が見向きもしない道の選択が、永遠に残る命の道となることがあります。捨てられることが幸福なのかもしれませんね。
あなたが直面するいかなる試練に対しても強く立ち向かうことができる力は、「シオンの一つの礎石」にかかっています。それはあなたの信仰です。どこまでも神様により頼んでいく信仰は、あなたの魂を完全なる平安に導き、恐れを取り除き、勝利を得させるでしょう。
あなたに強い信仰が与えられますようにお祈りしています。
小田 彰