「荒野花咲」
テーマ「主は涙をぬぐい」
聖書 イザヤ書25章1〜12節、黙示録7章13〜17節
イザヤ書24章は神の審判、そして25章は終末的救いの預言です。24章の神の審判は地球が消え失せてしまうほどの状態を預言しています。しかし25章では「新天新地」とも言うべき、天国の姿を預言しています。
イザヤ書の特徴は前半でアッシリア、後半でバビロンとの悲惨な戦争を背景にしているように見えますが、突然時代を超えた未来に目を転じています。私たちが今直面している世界の情勢を思いながら、これからどのような素晴らしい世界が実現するのかという幻を見せてくださるのです。
私たちにとっての最大の敵はサタンです。サタンが暗躍している以上、地上に完全な平安はありません。25章ではこの闇の世の主権者であるサタンが滅ぼされ、神の国が樹立されます。
①大勝利の祝宴が設けられます。その日死は廃棄されるのです。
②すべての顔おおいは取り除かれ、神と直接対話することができます。
③すべての顔から涙が拭われます。これは人間の究極的悲しみがなくなるということです。
④キリスト者が経験したすべての辱めを全地の上から取り除かれます。
何と言う光景でしょうか?
「また、主はこの山で、すべての民の被っている顔おおいと、すべての国の被っているおおい物とを破られる」(25: 7)
神と人とのあいだには、ベールがあって直接その姿を見ることが出来ませんでした。それは私たちにとっては、旧約聖書の律法主義のようなもので、それ故、かえって神ご自身と語ることができないようなものになりました。また、現代においては、物質主義や自己中心や偽善のゆえに、神と直接顔を合わせることができない罪の状態を意味しています。この山とはシオンの丘、すなわちキリストが十字架にかかられたエルサレムです。
伝道者パウロは、この御言葉を私たちのために翻訳してくれています。
「しかし、主に向くときには、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のある所には、自由がある。」(第二コリント3: 16、17)
「主は、とこしえに死を滅ぼし、主なる神は、すべての顔から涙を拭い、その民の辱めを全地の上から除かれる」。(25: 8)
今日は特に「主が涙を拭われる」という美しい御言葉に目を留めてみましょう。
イザヤ書は、天国のことを語っているのですが、イエス・キリストの福音書を見ますと、そこにこの天国の情景があることに気づきます。
イエス・キリストによって、私たちは喜びに満たされた祝宴に招待されました。そこでは、イエス・キリストの御名によってどんなことでも祈り求めることができます。そこにはもはや涙がないのです。人間としての苦しみがどんなであったとしても、イエス・キリストの十字架の愛によって涙は拭われているのです。
イエス・キリストの伝道は、悲しむ者の涙を拭うことであると言っても過言ではありません。ルカによる福音書7章11-17に於いて、ひとり息子を失い悲しみのどん底にあった婦人に、深い同情を寄せられ「泣かないでいなさい」とイエスは言われました。その息子の復活によって、彼女の涙は拭われたのです。
仏教において、人間の苦しみは「生老病死」で表されます。そこには常に限りない涙があります。しかし、イエス・キリストの救いは、これらの問題に完全な解決を与えます。そして、死でさえも、復活の希望によって悲しみとはならないのです。
神の永遠のご計画によって、未来のある時、地上のサタンの力を完全に滅ぼし、神の新天新地の時代を用意してくださっています。もはや「死」はなく、神と直接会話することができ、そして全ての涙が拭い取り去られる世界が来ると言うのです。ハレルヤ。これはイザヤの預言が私たちに与える大きな慰めと希望です。
今、世界を覆っている悲しみの涙の洪水を、喜びの賛歌に変えてくださるのです。
「また、神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとってくださるであろう」(黙示録7: 17)
聖書の信仰と希望に立って、あらゆる困難を乗り越えられますようにお祈りいたします。
小田 彰