「荒野花咲」
テーマ「ヒゼキヤの祈り」
聖書 イザヤ 38章1〜8節、ヤコブ 5章13〜18節
一般的にイザヤ書1章から39章を第1イザヤと言っていますが、その締めくくりの部分に、ユダの王ヒゼキヤの病の癒しの記録が登場します。この記事は列王記下20章に書かれている物語を部分的に転載したものと思われます。
旧約聖書の王様たちの中で、極めて信仰篤い、神を第一とする優れた王でした(BC 715-686)。ヒゼキヤという名前は「神は我が力」と言う意味です。
北方から攻めてくるアッシリアに対して、こびることなく、またエジプトに貢物を送って援軍を求めることをせず、自立して神の助けを祈り求めた人物でした。
「その頃ヒゼキヤは、病気になって死にかかっていた。」(イザヤ38: 1)その病気ははっきりは分かりませんが、足にできた骨肉腫ではなかったかと思われます。今日の癌のようなものであって死に至る病でした。
預言者イザヤは彼を訪ね、「あなたは死にます」と宣告し、死の準備をするように命令するのです。
○これは預言者自身にとっても大変辛い役目です。神の言葉は、人に命を宣言し、希望を与えるべきであって、失望を与えるべきではないのではないでしょうか。
○また、それほど忠実な信仰篤い人物に、国の存亡がかかっているような危機的な時期に、病による死を宣告するとは、あまりにも理不尽な神の言葉ではないでしょうか。
○ヒゼキヤはただちに、いつものように壁に顔を向けて神に祈りました。
「ああ主よ、願わくば、私が真実と真心とをもって、御前に歩み、あなたの目にかなうことを行ったのを覚えてください」そしてヒゼキヤはひどく泣いた。(38: 30)と書かれています。
○「イザヤがまだ中庭を出ないうちに、主の言葉が彼に臨んだ」(列王下20: 4)と書かれていますが、彼の祈りによって、神の心が即座に逆転していることに驚きます。
「神の御心を動かす祈り」と言ったら良いのでしょうか。
私たちの人生にとっても、危機的な状況の中で病におかされることがあります。神の御心を動かすような祈りの人となることができるでしょうか。
「私はあなたの祈りを聞いた。あなたの涙を見た。見よ、私はあなたのよわいを15年増そう。私はあなたとこの町とを、アッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」(38: 5.6)
ヒゼキヤの祈りは、
①信仰生活の証。国家を偶像礼拝から清め、神第一の信仰を国民に徹底させた。
②神への信頼。危機的な問題が起こったときに、即座に神に向かって祈った。
③涙の祈り。それは、日々の祈りの生活の中で、神との交わりの深さを意味しています。神に愛されていることを知っているからこそ、激しく訴えたのです。
ただいまレントの時期を迎えていますが、受難のイエス・キリストの傷跡を知っています。
「その打たれた傷によって、我々は癒されたのだ」(イザヤ53: 5)
主の受難によって与えられる癒しは三重の意味を持っています。
①断絶した神との和解。信仰の回復。
②人と人との和解。平和の実現
③肉体的病の癒し。死の時を遅らせることによって、神の栄光を表し、福音をさらに広く宣べ伝えることを可能にします。
私たちはただ神を信じているだけではなくて、現実的問題に遭遇した時、祈りによってそれを解決し、神の栄光を表す使命を持っています。
「信仰による祈りは、病んでいる人を救い、そして主は、その人を立ち上がらせてくださる」。(ヤコブ5: 15)
今日の学びが、あなたの人生の危機的な時に、力を発揮し、素晴らしい御業を見ることができる鍵となることを祈っています。
小田 彰