「荒野花咲」
テーマ「主を待ち望む者」
聖書 イザヤ 40章27〜31節、第二コリント 4章7〜16節
イザヤ書40章はなんと素晴らしい書物でしょうか。先週は「草は枯れ、花はしぼむ、しかし主の言葉はとこしえに残る」と、自然界の有り様のように国々の栄枯盛衰が展開していることを語りました。
このイザヤは、70年のバビロン捕囚の最中、希望など持ち得ない時に、天の星を仰ぎ、宇宙の創造者である神の絶対的力を確信していました。
ですから、
「しかし、主を待ち望むものは新なる力を得、わしのように翼を張ってのぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱る事はない。」(イザヤ40:31)
と断言することができたのです。
「主を待ち望む」とは、共同訳聖書では「主に望みを置くもの」と訳されています。どこまでも神に絶対的に依存することです。
「新なる力」とは、自分の力ではなく、その代わりに与えられる「神の力」を意味します。自分の力を訓練して成長させることではなく、自分という部分を切り取って、神の業に置き換えることなのです。
それは「復活の力」です。
日本では考えられないことですが、私が英国に留学していた頃、中古のエンジンを買って、古いエンジンを取り替えることがよく行われていました。私自身もMG1100という中古の車を買って乗っていましたが、大変調子が悪いので、別のエンジンに取り替えていただいたことがあります。まさに自動車の心臓の取り替えのようですね。
私たちの力で、なすことは過ちが多く、またしばしば挫折します。神の力をあなたの心の中にいただいて、古いものは廃棄してしまうのです。これはまさに復活の力です。
「わしのように、翼を張ってのぼることができる。」
わしは、空高く飛翔して、獲物を探し、チャンスをうかがって急降下して攻撃します。大変凄まじい、集中力のある動物です。この預言者イザヤは、バビロンの奴隷として、不自由な環境の中に閉じ込められていました。しかし、彼は信仰によって、空高く自由に飛翔することができたのです。ここでわしが例話として挙げられていますが、高いところから、翼に風を受けて、滑空して獲物を取ります。全く力を抜いたゆだね切った姿だからなのですね。
そのような信仰によって、私たちの環境は、逆境から順境へ変わることができるのです。
このような信仰を持って、現実的に戦った伝道者は聖パウロです。
「私たちは、四方から患難を受けても窮しない。途方に暮れても行詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それは主イエスを甦えらせた方が、私たちをもイエスと共に甦らせて下さるからです。」(第二コリント4:8〜14)
まさに「走っても疲れることなく、歩いても弱る事はない」生き方ですね。
私たちもイザヤが見ていた信仰の姿を、私たちの心に焼き付けて、すべての不可能を可能とし、賛美と感謝に満ち溢れた日々を過ごしたいものです。
神の力強い御手があなたと共にありますようにお祈りいたします。
小田 彰