「荒野花咲」
テーマ「傷ついた葦を折らず」
聖書 イザヤ 42章1〜9節、マタイ 12章17〜21節
イザヤ書42章1節から4節は、「主の僕の歌」と言われる有名な箇所です。
40章以来、バビロン捕囚から解放される希望の言葉の連続です。この42章の「主の僕」が誰であるかという問いが生まれてきます。選民イスラエルと考えることができます。またペルシャのクロス王という考えもあります。しかしいずれのタイプでもないことが御言葉を通してわかります。神に選ばれ、聖霊に満たされて、福音を全世界に伝える人。それはマタイによる福音書12章に書かれたイエス・キリストなのです。
さて、昨日、英国のチャールズ国王の戴冠式がありました。大変整った豪華な、そして荘厳な戴冠式でした。しかしこれから問われるのは、チャールズ国王の生き方であり、人格であり、影響力であります。今世界の権力のトップにある人々は、財力や権力や組織力によって、あるいは様々な策略をめぐらしして、そのトップの座を射止めた人々です。
しかし、ここに神に用いられる器の姿が示されています。それはまた、私にとっても、伝道者としての生き方がどういうものであるべきかを示唆しています。皆様にとっても信仰を持って生きる人がどういう人であるかがこの聖書に書かれているのです。
①神に選ばれた人
「私の喜ぶ我が選び人を見よ」(1)
神の計画は選ばれた人によって実現されます。しかし救い主として選ばれるべき人はただ1人でした。
②聖霊に満たされた人
「私は我が霊を彼に与えた」
自分の力で生きようとしているのか、神から注がれた聖霊によって生きようとしているのか。その人格の内に聖霊が宿っている人は、おのずと周りに静かな感化を与えていきます。
③真の信仰を伝える人
「彼は、諸々の国人に道を示す」
真理を示すお方は、単にイスラエル民族ではなく、全世界のすべての人にその道を示すのです。
④その態度は、柔和と謙遜、静寂と祈り
「彼は、叫ぶことなく、声を上げることなく、その声を巷に聞こえさせず、」(2)
そのお方は、政治家のようではなく、学者のようではなく、宗教的指導者のようではなく、沈黙の中に福音を伝える人です。
⑤衰えず、落胆せず、忍耐強く福音をかたり続ける人(3、4)
どんな雄弁な人も、どんなに力強く計画を進める人も必ず衰えます。しかし行き詰まらないのです。再びよみがえって前進していきます。それは復活のイエスキリストの姿です。
⑥当時の地中海沿岸の人々ばかりでなく、日本列島のような海に囲まれたところにいる全ての人も、この方の救いを待ち望んでいるのです。「海沿いの国々は、その教えを待ち望む」(4)
イエス・キリストの生涯を見るとき、彼は大説教家のようでもあり、大指導者のようでもありますが、しかしむしろ静かに静かに歩みを進める愛の器でした。祈りと静寂の人ということができるでしょう。そこには幼い子供たちまでが集まってきました。(マルコ10:13-16)その人格に惹かれた人々は、ただ2000年前のイスラエルの人ばかりではなく、現代の私たちも同じなのです。
さて、今日最も心に励ましを与えるみ言葉があります。
「また、傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道を示す」(42: 3)
折れかかった葦、消えかかった灯心とは何でしょうか?「神の愛がその心の中に死滅しようとするもの、あるいは信仰が困難の中にあって失われそうになるが、なお生きようとしてもだえ苦しむ者」と言う解釈を読みました。
まさに、私たちの信仰の灯が消えかかっているような時に、裁くことなく、そっと励まして、もう一度燃え立たせてくださる方。そのお方こそメシアであり、イエス・キリストのお姿なのです。
このイザヤの預言の言葉が、私たちに対しても投げかけられています。私たちの生き方の中に、聖霊に満たされた、静寂で祈りの人、信仰の弱っているものを励ますことのできる人。忍耐強く福音を伝え続ける人。
新たな目をもって、イエス・キリストのお姿を拝しましょう。そして私たちもそのお姿に似たものとなりますように。
神の祝福をお祈りいたします。
小田 彰