2023.6.18

「荒野花咲」

テーマ「神の沈黙」

聖書 イザヤ 45章14〜17節、ルカ 15章11〜24節

 

 「イスラエルの神、救い主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である。」(イザヤ45:15)

 

この「ご自分を隠しておられる神」は「隠れたる神」(デウス・アブスコンディトゥス)という神学的テーマでルター以来議論されてきた言葉です。それはまた「神の沈黙」という言葉で話題となってきました。遠藤周作の「沈黙」という小説の題材でもあります。

 

預言者イザヤは、神の言葉の宣教者でありながら、神のご計画が実に不可解なものであると感じたのでしょう。

この言葉の解釈において、未だ定説はありません。しかし、少なくとも5つの角度から理解を深めることができます。

①現実のイスラエル民族の悲劇の彼方にある、きたるべき新しいイスラエルの預言である。今は見えないが、輝かしい栄光の時代が来ると言う意味で「隠れたる神」であるのです。

②異邦人のペルシャの王クロスがイスラエル民族を解放するという神の業をなすという事は何たる不思議か。

③神の救いは必ず成就されるが、今はイザヤには明かされない。民族が罪の道に進んでも、それを放任している「沈黙する神」。

④神は全てにおいて、超越したお方で、理性で知ることができない。

「神はただ一人不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中で誰も見たものがなく、見ることもできない方である。」(第一テモテ6:16)

⑤神は真理を啓示されるが、それは聖霊の働きがなくては誰も見ることができない。

 

トランプゲームをする人が、自分の手の内を見せないように、必ず勝利するにしても、神はご自分の計画を明かさない。その意味において「自分を隠しておられる神」なのです。

 

「放蕩息子」の例え話(ルカ15章)

自由奔放な弟息子が父に自分の財産を分けるように求め、その財産を使い果たしたときに、大飢饉が起こり、食べることにも事欠く日々の中で、ついに父のもとに帰ろうと決心します。

息子の愚かさを知りながら、財産を渡した父は、毎日、村はずれでその帰りを待っていました。ボロボロになり、やせ細って杖にすがりながらやっと帰ってきた弟息子を認めた父は彼に走り寄ります。

「まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りより、その首を抱いて接吻した」(ルカ、15:20)

ここに父の「沈黙」を見ます。それは息子が悔い改めて帰ってくる日を待ちわびている父の祈りの姿です。

 

見えない神は裁かないお方。見守っていてくださるお方。待っていてくださるお方です。そこに「神の沈黙」があります。「隠れている神」のお姿があります。それは愛です。

 

しかし、ご自分を隠しておられる神は、探し求められることを望んでいるお方でもあります。

「私は、私を求めなかったものに問われることを喜び、私を尋ねなかったものに見出されることを喜んだ。私はわが名を呼ばなかった国民に言った、私はここにいる、私はここにいると。」(イザヤ65:1)

 

そこでイエスは山上の説教の中で言われました。「求めよ、そうすれば与えられるであろう。…すべて求めるものは得、捜すものは見出し、門を叩くものは開けてもらえるからである」(マタイ7:8)

 

祈りが答えられず「神が沈黙しておられる」と思われる時にも、ひたすら祈り求めることを神は期待しておられるのです。そしてご自分を隠して見守り続けていてくださるお方、常にすぐ近くにいて、支えようと手を差し伸べてくださるお方。それが聖書に語られている神のお姿です。しかし、この真理は聖霊の働きがなければ理解できないのです。

沈黙の中に愛を示してくださる神にあなたの魂の目が開かれますようにお祈りいたします。

小田 彰