「荒野花咲」
テーマ「年老いるまで変わらず」
聖書 イザヤ 46章3〜4節、12〜13節、詩篇 71篇1〜20節
「私はあなた方の年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ。私は造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46;4)
これはもう一つのイザヤ書が持つ有名な御言葉です。
長年信仰を持ったクリスチャンが証をするときに、この御言葉を引用して、年をとるまで、神様が守ってくださったと語る場合があります。確かに、それは大きな恵みですが、しかし聖書の御言葉はさらに深い意味を秘めております。
この1節の中に「我」と神がご自身の働きを強調している言葉を5回用いています。「持ち運ぶ」、「造った故」、「必ず負い」、「持ち運び」、「救う」のそれぞれの前に「我」と言う主語があります。「持ち運ぶ」は、面倒を見ると言う意味です。「負い」は背負ってと言う意味です。「救う」は救い出すと言う意味です。
なぜ、このように、神がイスラエル民族を選び、導き、養い、見捨てず、救い出すと強調しているのでしょうか。
それは、その前の1、2節の記録に対比して語っているのです。バビロンにはマルドゥクと言う神殿がありましたが、その神の名はベルとネボでした。それは純金で作られた像で22.5トンもあったと言われています。ペルシャ王クロスがバビロンに侵入してくる時、バビロンの神々に仕える神官たちは、この黄金のご神体を車に乗せ、何とか逃げようとしたのです。神が守ってくださるのではなくて、その神を背負って逃げなければならなかったのです。ですから神々の像が彼らの重荷となったのです。
それに対して、「生まれ出た時から、私に負われ、胎を出た時から、私に持ち運ばれたものよ」(46;3)とイスラエルの神は語りかけます。そして今日まで支え続け、面倒を見てくださり、ついには救出してくださるという約束をしてくださったのです。
ですから、この御言葉を語るときには「偶像から解放されなければならない」と言うメッセージを同時に聞いているわけです。
ここで私たちは「偶像」について考えておく必要があります。仏教の寺院にある大仏や優れた仏像などの良し悪しを言う事はできませんが、人の手によってできた偶像は、人を救うことができない事は確かです。
もちろん、ここで偶像とは必ずしも神々の像だけではなく、お金や名誉や自分の業績等もまた偶像となり得るのです。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。」(第二コリント4;18)
「しかし、私自身には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものは断じてあってはならない。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ新しく作られることこそ重要なのである。」(ガラテヤ6:14.15)
自分の心の中にある「偶像」を拾い出し、主の前に悔い改め、新しい価値観を持って生きるべきです。
また、目には見えない。しかし全世界を支配し、あなたを生かし、支え導いておられる神がイエス・キリストの十字架を通し、祈りに答えてくださり、あなたの人生を勝利に導いてくださるという事を、信仰を持って祈って戦い取る必要があります。これは選ばれた私たちの責任です。
晩年のダビデか、あるいは他の記者であるかもしれませんが、
「私が年老いた時、私を見放さないでください。私が力衰えた時、私を見捨てないでください。」(詩篇71:9)
と祈っています。人生の最後を全うするその時まで神の守りの中にあることを確信し、人々の前にきちんと証を立て続ける事はクリスチャンにとって大切なことです。
私はあなたが白髪となるまで決して変わる事はないと仰せられた主が、今週もあなたのすべての問題を解決し、あなたの信仰と命に輝きを与え、そして晩年に至るまで支え続けてくださることを信じましょう。
小田 彰