2023.8.27

「荒野花咲」

テーマ「主の器を担う者」

聖書 イザヤ 52章7〜15節、ローマ 10章14〜17節

 

「聞けよ、あなたの見張り人は声を上げて共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。」(イザヤ52: 8)

 

イザヤ書52章は、バビロンを脱出して、エルサレムに向かう聖なるなる行進の有り様を預言しています。その光景を目撃しているレポーターはイザヤ自身です。デキシーランドジャズの名曲When the Saints go marching in!は、まさにバビロンからエルサレムに向かう長い聖なる民の行進を歌っています。

今日、私たちクリスチャンの人生というものは、究極の神の国、新しいエルサレムに向かう長く、偉大な聖なる行進の一員となっていることなのです。

 

「主はその聖なるかいなを、諸々の国人の前に表された。地のすべての果ては、我々の神の救いを見る。」(52: 10) 何のために神は王としてエルサレムに帰還されたのか。それはただエルサレムのみの救いではなく、全世界の喜びの賛美のためであります。「神がわれらと共にいます」という恵みは、今日、日本の私たちにまで及び、人類全てに対して救いの宣言がなされました。

 

しかし、この光景はイエス・キリストがロバの子に乗って、エルサレムに入城されたことを想起させます。イザヤの預言は、イエス・キリストが王の王としてエルサレムで、救いの御業を完成されることを指し示しているのです。これに引き続いて第4の主の僕の歌である有名な53章が始まります。

「見よ、我が僕は栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」(52: 13)と書かれているお方が53章では、私たちのためにののしられ、鞭打たれ、ついに身代わりとして殺され、「その傷によって私たちが癒される」という約束に続いて参ります。

 

さて、今日の中心テーマは「聖なる行進」に加わる人々の姿についてです。

「去れよ、去れよ、そこを出て汚れたものに触るな。その中を出よ、主の器を担う者よ、己を清く保て。 あなた方は急いで出るに及ばない、また飛んで行くにも及ばない。主はあなた方の前に行き、イスラエルの神はあなた方のしんがりとなられるからだ。」(52: 11.12)

バビロンがエルサレムを滅ぼし、神殿を破壊した時、礼拝のために備えられていた金銀の聖壇用具を持ち去りました。そればかりでなく、ソロモン王の時代から集められた宝物を持ち去ったのです。しかし、ペルシャ王クロスは、これら全ての宝物を返して、祖国に持ち帰ることを許しました。ですから、この「聖なる行進」の先頭には、聖なる器を掲げた祭司たちの行列がありました。

①この世の象徴であるバビロンから脱出する時、聖なる民は、その長い旅の途中、あらゆる誘惑や偶像から身を清める必要がありました。「己を清く保て」とは強い表現です。

②その「聖なる行進」は逃亡ではありません。また夜逃げでもありません。堂々たる行進であります。急ぐことも慌てることもないのです。

③前にも後ろにも神の守りがあります。それは出エジプトの時に、昼は雲の柱、夜は火の柱が前後を守った記事を想起させます。

 

さて、私が30代に各地で伝道活動をしておりました時、ある大きな大会の委員会に出ておりました。先輩の牧師がこの御言葉を引用したのです。

「イエス・キリストを宣べ伝える私たちは聖なる器を担うものです。自らを清く保たねばなりません。準備は不完全で財政も困難でありますが、急ぐことも慌てることもありません。主がすべてのことを始め、すべてのことを完了してくださいます。」

その言葉が私の心に深く残っています。 私たちのしている事は小さなことかもしれませんが、大いなる神の民の行進の一部を分担しています。私たちの保たなければならない立場を確認いたしましょう。そして前後で守ってくださる神の御力に信頼して、焦ることも慌てることもありません。堂々たる歩みを続けていきたいと思うのです。

まもなく9月からクリスマスまでの4ヶ月が始まります。栄光に満ちた、喜びの歌に満ち溢れた、堂々たる歩みを共に続けさせていただきたいと願っています。       

小田 彰