「真のバプテスマ」(コロサイ2:8〜15、ローマ6:1〜8)
「あなた方は、むなしいだまし事の哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。」(コロサイ2:8)と、パウロは、厳しい言葉で、真のキリストに立ち帰るように勧めています。立ち帰るべきところは真のバプテスマです。
「あなた方は、バプテスマを受けて、彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2:12)
ここで言うバプテスマは、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを重ねて語っているように思われますが、「水のバプテスマ」についてまず確認いたしましょう。
①新しい命
古い自分はキリストと共に十字架に付けられました。彼と共に過去の罪が死んだ時、聖霊によって復活の命に生かされるのです。霊的な回心は外からわからない内面的な出来事ですが、それなくして、洗礼は意味がありません。
②信仰告白
信じる者のうちに、神が行われた霊的な事柄を形に表して、公に人々の前で明らかにする信仰告白の意味を持っています。芽生えた信仰は、隠しておいても良いのですが、聖書は公に人々の前で告白することを求めています。
③証の人生
バプテスマを受けて、新しい命によって生きるものとなったのですから、それにふさわしい生き方をしなければなりません。一般的に今日私たちは隠れキリシタンであってはならないのです。
バプテスマ(洗礼)は教会の入会式ではありません。キリストと一体となって歩む人生の恵みの御業なのです。神があなたの心の内側になしてくださった変化を、水のバプテスマを通して証するのです。
さて、先日御牧硯太郎という先生の話をしました。銀座教会で洗礼を受け、罪が赦されたことの喜びで満たされましたが、2ヶ月ほどするとその喜びが失われてしまったと言うのです。 笹尾鉄三郎先生に会って尋ねると、「君は聖霊を受けましたか、清められましたか」と聞かれました。しかし、その意味がわからず、4人の友人と2ヶ月の間、必死に聖霊を求めて祈ったと言うのです。すると聖霊が注がれて、過去の罪が赦されたと言うだけではなく、罪と不信仰の性質が造り変えらる経験をしました。笹尾先生は、それを清められるという言葉で表現されたのですね。
その時から、御牧先生は心には完全なる平安をいただき、力強く大胆に福音を語ることができるようになったと言うのです。
使徒行伝2章でペンテコステの日、聖霊が降臨しました。臆病な弟子たちは、造り変えられて全く大胆な証をする伝道者になりました。これを「聖霊のバプテスマ」と言っています。しかし、それは外面的には見えないのですが、魂の内側に起こる素晴らしい出来事なのです。
パウロ自身は、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙などにおいて、聖霊の経験について繰り返し語っています。ローマの獄中からコロサイ教会の人たちに、ぜひもう一歩深い体験をしてほしいと願ったのでしょう。
「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2: 19.20)
洗礼を受けてクリスチャンになったというだけでは、信仰生活に行き詰まりを経験するものです。この霊的なバプテスマを祈りも求めて参りましょう。
今週も神の恵みが豊かにありますようにお祈りしています。
小田 彰