2024.11.3

「かしらなるキリスト」(コロサイ2:16〜23、エペソ4:12〜16)

 

「だから、あなた方は、食物と飲み物とにつき、あるいは、祭りや新月や安息日などについて、誰にも批評されてはならない。これらはきたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

あなた方は、わざとらしい謙遜と天使礼拝とに溺れている人々から、色々と悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、キリストなるかしらにしっかりと着くことをしない。このかしらから出て、体全体は、節と節、筋と筋とによって強められ、結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。」(コロサイ2:16〜19)

 

この記述はコロサイ教会の中に、キリストを信じ、バプテスマを受け、救いの体験を持った人たちの集団でありながら、それぞれが持っている古いバックグラウンドを教会の中に持ち込んで、真のキリストの僕らしくない人々の姿がたくさん見えていることを示しています。それぞれが持つ宗教的習慣であっても、今やイエス・キリストが唯一の救い主であることを体験したのであるから、それらのことから完全に解放されていなければなりません。

 

1)キリスト者の自由

この23節に至る部分を「キリスト者の自由」として取り上げたのは、宗教改革者マルティン・ルターでした。1520年に発行した「キリスト者の自由」という小冊子は、全ヨーロッパを作り替える力がありました。もちろん彼が語ろうとした事は「カトリック教会、あるいは教皇の権威や規則、強制された行為(免罪符の購入)から解放され、信仰のみによって生きること」を意味しました。

パウロは、教会の中に入り込んだ強い、ユダヤ教的バックグラウンドや、グノーシス主義者たちの神秘的な教えなどに、クリスチャンはきっぱりと線を引いて、キリスト中心の生き方にならなければならないことを主張しました。

 

2)キリスト者の成長

「神に育てられて成長していくのである。」(コロサイ2:19)

「愛にあって、真理を語り、あらゆる点において、成長し、かしらなるキリストに達するのである。」(エペソ4:15)

ここでは、神と人との個人的な関係において、霊的に成長すべきであるという意味と、教会という共同体の中で、人間関係において成長し、キリストの体を形成していくという二つの意味を持っています。

 

古い慣習やしきたり、律法主義や神秘主義から解放されたとしても、その人格がキリストの姿に似たものとならなければ、本当のクリスチャンとは言えません。

 

私は50年以上も伝道してきましたが、それぞれのクリスチャンはバプテスマを受けているとしても、それぞれの人格には異なる段階があるのではないかと思わされてきました。柔道や剣道に段というものがありますが、信仰にも一種の段のようなものがあるのではないかと感じています。このことについては今まで一度も話したことがありません。

 

[キリスト者の成長段階]

①キリストと出会い、回心し、洗礼を受ける第一段階。

②信仰による幸福体験。祈りが聞かれ、問題が解決し、楽しい交わりの中に生活し始めます。

③積極的に証をし、宣教に参加し、また導かれて献身して神学校に行くようなこともあります。

これまでの三段階は多くのクリスチャンが経験しているところです。

④キリスト者らしくない自分発見。

性質の中にまだキリストの形ができていないことに気づき、行き詰まり、挫折し、喜びを失い、それでいてひたすら祈っている姿。

⑤飢え渇いた魂に聖霊が注がれ「聖霊のバプテスマ」を経験している段階。もはや試練の中にあっても感謝し、不可能と思えることに遭遇しても、祈り続け、教会の交わりに問題があっても、忍耐強く愛を持って接し続けることができるような段階。

⑥全き信仰、全き愛、全き献身。

数少ないクリスチャンがこのような生き方を無言のうちに証しています。

⑦キリストと共に死に、キリストと共に生きる。キリストの姿を見るような生き方、ここにパウロの祈りの頂点があります。

 

④から⑦までは、深く神の前に歩むものに与えられる恵みです。聖書の御言葉によって示されていくのであって、段階の区切りは必ずしもないかもしれません。

 

しかしコロサイ人への手紙は、キリストの人格に達することを求め、それを成したもう神の恵みを語っています。改めてこの手紙の深さを教えられるものです。お互いがどのようなレベルにいるのかを思いめぐらしつつ、祈り求めて歩まれることを心からお勧めします。

 

「あなた方のうちに、キリストの形ができるまでは、私は、またもや、あなた方のために、産みの苦しみをする。」(ガラテヤ4:19)

 

今週も神の御言葉があなたの生活と共にありますように。

小田 彰