「苦難の時代」
(第二テモテ 3章1〜9節、マタイ 24章3〜14節)
ローマの獄中にいたパウロが、実にエペソの教会の内情について、細かな知識を持っていたことを知って驚きます。
パウロがエペソで伝道を開始したときに、劇的な広がりを見ました。
エペソにおいては、魔術師が力を持っていました。
またローマの豊かさと知識を持った人々も多く加わりました。
まだ礼拝堂という形はありませんでしたから、有力な信徒の幾つもの屋敷に何百人と言う人たちが集まっていたのでしょう。
福音が語られましたが、キリスト教のライフスタイルというものが決まっていたわけではありません。
イエス・キリストを信じた人々が、人種や階級を超えて一緒に集まるコミュニティーができた事は素晴らしいことでしたが、その中の人間関係というものについては、整った基準があったわけではありません。
その全体を取りまとめる牧師がテモテであったわけですから、簡単な仕事ではなかったでしょう。
パウロは、その教会の中にある罪の根というものを一つ一つ掘り出して清めようとしたのでしょう。
ですから、今、ここで読み上げる箇所は、一般社会の問題ではなく、教会の中の問題であったことに驚きますね。
今日のテーマにサブタイトルをつけるならば「危機に立つ正当的信仰」ということができます。
「しかし、この事は知っておかねばならない。終わりの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言相互する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無常な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながら、その実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。」(3:1 〜5)
ここには19項目が挙げられています。
最初の2項目は教会の中における罪の深い根です。
「罪とは、愛の対象が、神様から離れて、自分やあるいは金銭、物質的なものに移ることです」
次の3項目は「神の前の謙遜の喪失です」。
言葉の中に傲慢が表れ、神と人の前にへりくだる態度が見えないのです。
しかしこれは当時、社会的地位の高い人々が教会の中で振る舞った態度ではないだろうかと思われます。
キリスト者は、誰に対しても謙遜で丁寧でなければなりませんね。
真の支配者はイエス・キリストのみですから。
次の14項目は、クリスチャンの常識的な徳にも反する人間の清められていない性格をよく表しています。
「神よりも快楽を愛するもの」が教会の中にいて良いのかと思いますが、あったんでしょうね。
パウロは、テモテに、これらの人を一人一人面談して指導していきなさいとは言いませんでした。
「こうした人々を避けなさい」と言ったんですね。
これは果てしもない議論になってしまうからです。
20番目には「常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない人々」(3:7)と書かれていますが、教会を単なる社交の場としていた人々のことを言っているのでしょう。
礼拝の時のドレスやアクセサリーの事など、魅力的なローマ風の夫人たちは、また恋の話に落ちたのでしょう。
日本の教会はまだ規模が小さいので、このような忠告は当たらないかもしれませんが、しばしば私たちの信仰生活の中に悪魔が持ち込んでくる問題です。
罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の赦しをいただき救われ、聖書の御言葉に従って歩み、どんな逆境の中にも復活の希望を持って天国に向かっていく、そのようなクリスチャン像を誰もが持っていたわけでは無いのです。
イエス・キリストは世の終わりの前兆について、マタイによる福音書24章で語っています。
「その時多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう。
…また、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:10〜13 )
教会の中でさえも、信仰が振るわれ、信頼や愛情が崩れ去るような出来事があるかもしれません。
「耐え忍ぶ」とは、神様を信頼し、自分の態度を変えないということですね。
影響されないということです。
信頼し続けるということです。
2000年前に書かれた聖書の言葉ですが、現代の教会にも当てはまることが多くあると思います。
あまり触れたくないテーマではありますが、心の中に刻んで、いつでも迷わない信仰者として生きて参りたいと思います
神様の祝福が今週も豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰