2024.5.5

「福音の前進」

(ピリピ 1:12〜18、ルカ 21:10〜19)

 

ローマの獄中からピリピ教会に感謝と祈りの手紙を書きながら、教会の中に、パウロの投獄を不幸なことと考え、批判する人々がいたことを知り、「むしろこれは福音の前進のために役に立つ」という彼の信仰の強い証をしている箇所です。

 

「さて、兄弟たちよ。私の身に起こったことが、むしろ、福音の前進に役立つようになったことを、あなた方に知ってもらいたい。」(1:12)

「そして、兄弟たちの多くの者は、私の入獄によって、主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に神の言を語るようになった。」(1:14)

ピリピ教会の中にも、パウロと競争意識を持つような、批判的なグループがいたようです。いつの時代にも同じ教会の中に、異なる考えを持つ人が異論を唱え分裂を引き起こすことがあります。それに対して、パウロは大胆にこう言いました。

「すると、どうなのか、見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、私はそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。」(1:18)

 

キリストの福音は逆説的真理です。十字架にも関わらず勝利と言い、殺されながらも復活の信仰に満ち溢れ、弱い時にこそ強いと断言する。それは神の力によってなされるみわざのために、人間の側の働きが無に帰する必要があるのです。

 

今日の私たちの立場において考えるならば、信仰を持って生きているのに、苦しみが絶えず、また病が癒されず、一見社会的には惨めなような立場に置かれることがあります。その時祈りが聞かれないのは、神の力がないのだと言う人もあるでしょう。そもそもキリスト教信仰が間違っているのだと批判する人もあるでしょう。しかし、逆説的福音に立つ人は、「この状況の中で神様がどのように素晴らしいことをしてくださるか期待しています」と大胆に言うことができるのです。そのような信仰を持ちたいものです。

 

ですから、パウロは次のように言うことができたのです。

「さて、神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと、共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私たちは知っている。」(ローマ8:28)

すべては神の最善なのですと信じて、大胆に語り、そのように生き抜くことができる人は幸いです。

 

神様の祝福が豊かにありますように。日々神の愛の中に最善に導かれていることを信じ、受け入れることができる人は幸いです。

小田 彰