「キリストを知る故に」(ピリピ 3章2〜9節、エペソ 4章13〜16節)
先週ピリピ教会の中で割礼を強調するユダヤ教出身者たちがたくさんいることをお話ししましたね。
彼らに対して、パウロがユダヤ教徒として、いかに筋金入りの人生を送ってきたかを話しています。
日本人の慎ましいクリスチャンですと、これは言わなくても良いかと思われますが、「しかし私にとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった」(ピリピ3:7)と言って、彼の人生の価値観が、全く逆転したことを証しようとしているのです。
① 8日目に割礼を受けたもの
②イスラエル民族に属するもの
③ベニヤミン族の出身
④ヘブル人の中のヘブル人
⑤律法の上ではパリサイ人
⑥熱心の点では教会の迫害者
⑦律法の義については落ち度のないもの
これは、生粋のユダヤ人にとっては、大変重要なキャリアでありますが、教会の中にもそれを持ち込もうとしたのですね。
そこには、ギリシャ人もいましたし、ローマ人も、その他様々な民族、さらに奴隷と言われる人々までもいたのです。
そんな特権意識は捨ててしまいなさい。
ただキリストのみです。
これが伝道者パウロの主張であったのです。
「しかし、私にとって益であったこれらのものを、キリストの故に損と思うようになった。
私は、さらに進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、一切のものを損と思っている。
キリストのゆえに、私はすべてを失ったが、それらのものをふんどのように思っている。
それは私がキリストを得るためであり、…キリストのうちに自分を見出すようになるためである。」(ピリピ3:7〜9)
信仰とは自らの無を知って、ひたすらキリストによりすがる心の態度です。
それ故、心を充足させようとするすべてのものを「損」と感じる心なのです。
自分の無価値性に気づくということが信仰の第一歩です。
パウロは、幼い頃から与えられた最高の教育や環境が実に本物の救いであるイエス・キリストを知ることの妨げであったことに気づいてふんどのように捨ててしまったのです。
ルカによる福音書5章27節のところで取税人マタイにイエスが声をかけて、「私に従ってきなさい」と言われると一切のものを捨ててイエスに従った記事が書かれています。
金銭に対する強い執着と価値観をもったルカはイエス様に出会ったときに、それ以上の価値あるお方を言い出したのです。
ここに価値観の大転換があります。
ですから、パウロは、クリスチャンとなりながら、ユダヤ教の律法に縛られている人々に対して「犬どもよ」とまで強く叱責したわけです。
「キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに」彼に与えられた地上のすべての名誉は、シュレッダーに捨ててしまったのです。
私たちの信仰生活においても、どうしてもこの世の慣習や、あるいは社会的な圧力に負けてしまい、最も尊いイエス・キリストの光を消してしまうことがあります。
深く自問自答し、悔い改めなければならないことではないでしょうか。
3章20節で「しかし、私たちの国籍は天にある」という強い宣言があります。
彼は一民族のエリートであることよりも、天国の住人であることの方が、さらに尊いことを知っていたのです。
イスラエル人の市民権などは取るに足らない。
神の国の住人となるためには、徹底的にこの世のものから離れなければならないと信じていたのです。
このような生き方こそ、真のキリスト者の道であることを覚えていきましょう。
今週もその行く道に神の祝福がありますようにお祈りいたします。
小田 彰