「真の割礼」(ピリピ 3:1〜4、使徒行伝 15:1〜11)
初代教会の中には、ユダヤ教から改宗したキリスト者が大勢いました。「あなた方も、モーセの慣例に従って、割礼を受けなければ、救われない」(使徒行伝15:1)と説くものがありました。ピリピ教会においても、そのようなリーダーたちがいましたので、パウロは厳しく叱責しました。
「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。」(ピリピ3:2)
割礼は選民イスラエル民族の証明でした。しかしパウロは、キリストの十字架のほか、何者も信仰の土台(条件)では無いことを強調しました。
さらに、真の割礼(クリスチャン)について3つのことを書いています。
「①神の霊によって、礼拝をし
②キリスト・イエスを誇りとし
③肉を頼みとしない私たちこそ割礼のものである。」(ピリピ3:3)
パウロは、家柄においても、学歴においても、ユダヤ教の知識と経験においても、国会議員としての力においても充分誇るべき事はありましたが、イエス・キリストの十字架の恵みに比べたときにそれらのものは塵芥であると言っています。決して肉を頼みとしなかったのです。
ガラテヤ人への手紙は、特に割礼問題について多く書いています。
「自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきに繋がれてはならない。
私たちは御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強く抱いている。
キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」(ガラテヤ5:1、5、6)
今日も、福音を宣べ伝えようとすると、あの教派でなければ、あの神学校でなければ、あの体験がなければなどと条件をつける場合があります。愛によって働くキリスト信仰、十字架信仰によってのみ、私たちは救われていることを確信することができるのです。これが信仰による自由のメッセージなのです。肉による誇りやプライドによらず、キリストの十字架の愛によって宣べ伝えるものとなりましょう。
神様の祝福をお祈りいたします。
小田 彰