「国籍は天に」(ピリピ3:20〜21、第二コリント3:16〜18)
「しかし、私たちの国籍は天にある。」(ピリピ3:20)なんと大胆で清々しい信仰告白でしょうか。ユダヤ教の律法や伝統や習慣ばかり語っている人たちに対して、私たちは天の住人なんだから関係ないんですよと大胆に言い放っているように見えます。ここで言う天は「神の世界」という意味でしょうね。人の世界に属するものではなく、神の世界に属するものなのだから、そのように生きるべきではないでしょうか。
労苦の多いこの世の生活に耐えるためには「天」に希望を持つことをパウロは勧めています。
そこには2つの具体的な意味があります。
①キリストの再臨を待ち望む。
地上におけるいかなる迫害の中に苦しむ時にも、キリストの再臨によって全てが正しくされ、また私たちが救われること。
②変貌ーキリストの姿に化せられること。
「彼は万物をご自身に従わせ得る力の働きによって、私たちの卑しい体をご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるであろう。」(3:21)
「キリストの形に変えられる」とは、内なる心と魂から根本的に変えられることです。古い自分をキリストに似たものとし、主を中心として、生きる私を完成してくださるのです。
しかし、これは単に内面のことだけではないと思います。魂が変わった人の表情は美しくなります。精神的に生まれ変わった人は生き生きとして力強く輝くことができます。
パウロはたびたびこの「変貌」について語っています。
「朽ちるもので、撒かれ、朽ちないものに甦り、卑しいもので、撒かれ、栄光あるものによみがえる。」(第一コリント15:42、43)
「私たちは皆、顔覆いなしに主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(第二コリント3:18)
一般的に円熟したクリスチャンになれば、なるほど、歳をとって、体も弱っていくものです。天に召されるときには、肉体的にはボロボロになって疲れ果てて、旅立つことになります。それでは天国に行ったら、よぼよぼの老人ばかりが集まっているのでしょうか。そんな事はありませんね。栄光から栄光へと変貌していくのです。ここに大胆な希望があります。キリストの命をいただいた者たちは、日々霊的にも肉体的にも輝かしく成長していくと言う約束です。信じましょう。
迫害こそないかもしれませんが、現実生活の厳しさは皆体験しています。クリスチャンであっても、疲れ果て心も体も弱り果ててしまうものです。そのような時、大胆に「私の国籍は天にある」と言いましょう。
日々新しくされ、神の栄光をほめたたえるものでありますように心からお祈りしております。
今週も素晴らしい一週間でありますように祝福をお祈りいたします。
小田 彰