2024.9.29

「神との和解」(コロサイ 1章21〜23節、第二 コリント 5章16〜21節

 

パウロの伝道によって生まれた新しい教会には、まだ書かれた聖書もありませんでしたし、しっかりとした教育を受けた指導者たちもおりませんでした。ナザレ人、イエス・キリストが死んで私たちを救ってくれた。私たちは人種や階級に関係なく、誰でも神の子になれると言うシンプルなメッセージによって、教会は成長していきました。そこで似て非なる教えを説く者たちが、また教会の中に増えていきました。

そこでパウロは「これが福音だ!」と言うメッセージをここに残しました。

 

「あなた方も、

①かつては悪い行いをして、神から離れ、心の中で神に敵対していた。

しかし、

②今では、御子は、その肉の体により、その死を通して、あなた方を神と和解させ、

③あなた方を聖なる、傷のない、責められるところのないものとして、御前に立たせてくださったのである。」(コロサイ1:21.22)

 

ここで大事な言葉は、「神との和解」です。この和解は、神と人との両者の歩み寄りにより成り立つものではありません。神の側から主導的に提示された十字架の道を指しています。

すなわち、神は、キリストの十字架を受け入れたものと和解するのです。

人間の側からの努力や、捧げ物や、奉仕によって和解は成立しません。

ですから「福音に生きるとは、神の恵みを受け入れて、感謝して生きること」なのです。

 

この「和解」によって、

①罪が赦され救われるのです。

②そればかりではなく、性質が造り変えられきよいものとされます。

それによって誰でも心に平安をいただき、信仰によって強く生きることができます。

 

この福音のために「パウロは奉仕し」私たちもまた「召されている」のです。

 

ルカによる福音書10:25〜36に「善きサマリヤ人」の例え話が出てきます。

ユダヤ人の旅人が、強盗に出会って、持ち物が奪われたばかりでなく、全身に傷を負って倒れていました。パリサイ人や祭司と言われる人たちは、横目で見ながら過ぎていきました。

当時敵対関係にあったサマリヤ人が、彼を介抱し、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って、看病を頼み、一切の費用を支払い、足りなければ帰り道にまた払いますと言ったと言うお話です。これは一方的な愛の業です。イエス様は神の愛の一方的な業をここに例えでお話になりました。

今日、私たちに与えられている救いの恵みは、私たちの選択や、努力によるのではなく、神の一方的な恵みなのです。そのことを覚えて感謝を持って生きて参りましょう。また、この神の恵みなくして、人は本当に心に平安を持つことができません。ですから、これを宣べ伝えていきましょう。

神の恵みがあなたと共にありますようにお祈りいたしております。

小田 彰