「福音の真理の言葉」(コロサイ1:1〜8、ペテロ第一1:3〜9)
ピリピの手紙を終えてコロサイ人への手紙に入ります。
この手紙もローマの獄中からパウロによって書かれたものです。
同様に書かれたエペソ人への手紙は、教会の一致と雄大さを語るのに比べて、イエス・キリストの神性とその完全性を語っています。
エペソでは、福音の力強い拡大を見、教会は成長しました。
そこにいた信徒であり、弟子となったエパフラスが160キロほど南東にあるコロサイに伝道してできた教会でした。
教会の成長とともに、グノーシス哲学の影響や、天使礼拝を重んじる人々や、ユダヤ的な禁欲主義を救いの条件と掲げる人々が、教会の中に活動を始めておりました。
エパフラスは自分の力ではまとめ切れないので、ローマに出かけパウロに助けを求めました。
その結果、生み出されたのがコロサイ人への手紙なのです。
今日も聖書を掲げながら、いろいろな思想を盛り込んで生まれた新興宗教がいくつもあります。
そこには真の救いはありません。
「これは、キリスト・イエスに対するあなた方の信仰と、すべての聖徒に対して抱いているあなた方の愛を耳にしたからである。この愛は、あなた方のために、天に蓄えられている望みに基づくものであり、その望みについては、あなた方は、既にあなた方のところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。」(コロサイ1:4.5)
ここには、パウロがコリント人への第一の手紙13章13節で語った「信仰、希望、愛」のメッセージが織りなされています。
パウロにとって福音とは、信仰と希望と愛であったのです。
その本質は十字架にかかられたイエス・キリストご自身です。
先週ヘンデルのメサイアの歌詞はジェネンズが書いたことをお話ししましたが、彼は、シェイクスピアの研究家であると同時に、聖書に立脚した福音を語る人でありました。
1700年代ヘンデルを支える多くの財閥はユダヤ教徒でしたが、彼らは旧約聖書のメシヤが新約聖書のキリストであるとは到底認められなかったのです。
ですから、ジェネンズは80%以上を旧約聖書の引用に用い、クリスマスに誕生し、十字架にかかられ、復活されたイエス・キリストがそのメシアであることを、ヘンデルの作曲に託して伝えたかったのです。
「サウロは…このイエスこそ、神の子であると説き始めた」(使徒行伝9:20)と、彼の伝道はナザレ人イエスが神の子であり、メシアであり、救い主であることを論証することでありました。
私たちの信仰生活においても、あのイエスが救い主キリストであり、神の御子であることを確信する事は、全く異なるレベルの信仰の力を発揮する秘訣となります。
ガリラヤ湖に嵐が到来した暗い夜、明け方イエスは水の上を歩いて船に近づきました。
主が鎮められたとき嵐は止みました。
弟子たちは言いました。
「本当に、あなたは神の子です。」(マタイ14:33)
イエスが神であることに気づく時、私たちの祈りは現実のものとなります。
祈った事は必ずそのようになるという確信がなければ、祈りには力はありません。
しかしそれはイエスがキリストであるという確信からしか生まれないのです。
イエス・キリストを命をかけて伝えようとしたパウロにとって、イエスが単なる教祖であるなどという事は全く考えられませんでした。
絶対的神としての存在に遭遇したために、彼の人生は変わり、福音は世界に宣べ伝えられ、今日教会が存在しているのです。
あなたの信仰に「イエスは神である」という確信が与えられたならば、不可能を可能とし、奇跡をも当たり前のこととして信じることができる人となるでしょう。
「あなた方はイエス・キリストを見た事はないが、彼を愛している。
現在見てはいないけれども、信じて言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びに溢れている。」(第一ペテロ1:8)
神であるイエスの祝福があなたと共にありますように。
小田 彰