「10月は伝道月間と位置付け、改めて伝道について考える。」
伝道とは何か?何を伝えるのか?
自分は伝えるものを持っているか?
伝えられる人の幸せに帰結できるか?
伝え方は正しいか?
福音として語っているか?
聖書の原理から離れていないか?
神の啓示として表現しているか?
キリストを正しく、生き生きと、自分の体験として伝えているか?
聖霊の働きを実感しているか?
祈りの熱い備えがあるか?
声、言葉、態度、雰囲気、存在がキリストを指し示しているか?
忍耐強い覚悟を持っているか?など考察してみよう。
[証デモンストレーション]
1.キリストとの出会いのいきさつ。
2.そのためにとりなしてくれた人々、背後の祈り。
3.入信、回心の出来事。
4.なぜそのような高いハードルを越えることができたのか?心境は?
5.みことばの裏書き!
自分の体験は聖書のどのようなみことばと関連付けることができるか?
6.今日、神の先行的恩寵としての神の愛をどのように整理し受け止めているか?
7.入信、回心を通して、どのような変化があったか?
8.クリスチャンとなって、信仰はどのように変化、成長したか?
9.クリスチャンとなって、どのような迷い、葛藤、苦悩、不安があったか?なお魂の平安は保たれているか?10.未信者にそれでも伝えねばならない証のエッセンスとは何か?
◎新生、聖化、聖霊のバプテスマ、永遠の生命、復活信仰、栄化と言われる信仰…などを平行的に考察しよう。
◎これらの霊的証は祈りと聖霊のみたすけなくして、整えられることはないことを深く思うべきである。
旧約聖書は1つの民族について記している。
新約聖書は1人の人について記している。
その民族は、この世界に「その人」が来るために神が始め、育てられたのである。
イエス・キリストが地上に現れたことは、全歴史の中心的出来事である。
旧約聖書はそのために舞台を作り、新約聖書はそれを描写している。
聖書の全体は、このキリストについての美しい物語と、キリストを受け入れる者に与えられる永遠のいのちの約束によって構成されている。聖書が書かれたのは、ただ人間がキリストを信じ、理解し、知り、愛し、彼に従うようになるためである。
聖書の中心でありいのちであるキリスト、歴史の中心でありいのちであるキリストは、またわれわれの生活の中心でありいのちでもある。
永遠の運命はキリストの手中にある。
われわれがこの方を受け入れるか、拒むかが、永遠の栄光か永遠の滅亡か、また天国か地獄かを定めるものである。
すべての人に要請されている最も重大な決断は、心の底から、キリストに対する態度を明確に決定することである。一切のことがそのことにかかっている。
キリスト者であることは光栄であり、人類に与えられる最も尊い特権である。キリストを救い主として受け入れ、また主としていのちの道に従うことは、最良の生きる道であり、豊かに満ち溢れるいのちであるばかりでなく、「終わりなきなきいのち」をも意味する。
キリスト者の希望を持たずに人生を送り、死に直面することは恐ろしいことである。われわれはみな死ななければならない。両手を広げ、キリストを喜び迎えることは、すべての人間にふさわしいことである。(H.H.ハーレイ)
ヘンデル作曲オラトリオ「メサイア」の聖書概論的意味について
1967年12月5日千葉県文化会館大ホールで始めて聞いたメサイアは、回心間もないクリスチャンに聖書全体が、何を語っているかというパノラマ的視界を与えた。それは、第一部メシア預言とその成就、人類の罪を贖うメシア…預言、誕生、人となり、その使命。
第二部メシアなるキリストの受難と復活、救いの完成…キリストの十字架、復活、聖霊降臨、宣教の爆発的展開、王の王、主の主の世界支配。
第三部我らの復活信仰と永遠の命、メシアなるキリストの即位と賛美…パウロによる復活信仰、再臨、携挙、仔羊の婚宴と永遠的賛美、ハレルヤ、アーメン。
であって、それまで部分的に、断片的に読んできた聖書全体を、櫛で貫くように開いてくださった。
「メサイア」は音楽というよりも、まず聖書概論であることに気付かねばならない。
ヘンデルは1741年8月22日から9月14日の間に一気にメサイアを完成しました。初演は1742年4月13日アイルランドのダブリンの新設ニュー・ミュージック・ホールでなされた。ロンドン初演は1743年3月23日コベントガーデンで国王ジョージ2世臨席の下であった。
しかし、メサイア原稿はチャールズ・ジェネンズがもたらしたものであって、それが聖書概論的には最も重要なことである。