□神のことば□
霊感についての諸説や、聖書がいかにして現在の形をとるに至ったかということの論議、あるいは原典が編集者や筆記者の手を経る間にどれほど傷つけられたかなどを離れて、さらに聖書がどれほど文字通りに解釈されているか、どれだけ比喩的に解釈されているか、また何が歴史的で、何が詩的であるかという問題はさておいて、聖書をあるがままの姿で受け取り、各書を学んでその内容を知ろうとするならば、必ずそれらの書物に霊感を与えた一つの意志の存在を見いだすであろう。これは聖書に押された著者の印であり、独特無比な意味で「神のことば」であることを示している。
□聖書の霊感□
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(第2テモテ3:16)
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」(第2ペテロ1:20.21)「これまでに書かれた事がらは、すべて私達の教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みを抱かせるためである。」(ローマ15:4)
「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなたがにすべてのことを教え、また、私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。」(ヨハネ14:26)
神の啓示は聖書の中に具体的に現されている。聖書の言語は神の霊感を受けていて、そこで述べられていることはすべて誤りがない。
□霊感の定義□
「昔、聖霊が原著者達に働いて、用いた言葉使いにいたるまで指揮を与え、また同様に彼らがどんな脱・誤をも犯さぬように保護した解明しえない力」(ジュネーブのオラトワールの組織神学教授、L、ガウセン)
霊感は実際「解明しえない」のである。それは聖霊が働く力であるが、我々にはこの力がどのように作用したかを的確に語ることは出来ない。霊感は聖書の著者達に限られている。このことは他のすべての「聖なる書物」が霊感されていないものとして退け、教会や教会会議や、信条や、聖職者が究極の権威を持つことをすべて否定する。霊感は本質的には「導き」である。つまり、聖書に用いられるべき資料、および用語の選択に際して聖霊が監督されたのである。最後に霊感は、著者達をすべての脱・誤謬、から守った。それゆえ、我々は聖書の中に一言一句霊感を受けた、神のことばを与えられているのである。
(H.シーセン 組織神学 P.178)
□聖書の前にひざまずいて□
聖書は全巻、神ご自身が主宰し、指導し、神の全き支配の下に、人間の著者の手によって、神が 書かれたものである。世界にある他の書物はどれも神のことばではないという意味で、聖書は神のことばである。
バイブルアカデミーは「神のことば」の前にひざまずいて、仕え、聞き、従い、宣べ伝える。
☆テキスト1 「信仰と不信仰のあいだ」…子孫の約束とハガルの子イシマエル…創世記15:1-16:16
☆テキスト2.「神の人事評価」…何故エサウでなくヤコブか…創世記27:1-40
☆聖霊論についての考察
「洗礼と聖霊のバプテスマ」
マタイ3:1-12
マルコ1:1-8
ルカ3:15-17
ヨハネ1:24-34
「助け主なる聖霊」
ヨハネ4: 1-31
ヨハネ15:1-27
ヨハネ16:1-15
「聖霊の賜物」
第一コリント12章 13章
ガラテヤ5:16-26
使徒1:1-2:4
☆説教演習
ルカ7:11- 17