◎今月のテーマ『告白宗教としてのキリスト教信仰』
あえて「宗教」と言う言葉を用いるが、日本人の宗教観は「心の中で信心していれば…」という傾向がある。
クリスチャンではあるが、家が仏教なので、しきたりに従っても仕方ない。
心はクリスチャンなんだから。
しかし、聖書は「信仰は表現が問われている」と語っている。
テキスト
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ10:8-10)
信仰告白の第一は洗礼であり聖餐である。
しかし、「イエスを主と告白する」のは、必ずしも、言葉による伝道や証とは限らない。
共に礼拝を捧げることも、賛美することも、もちろん人に奉仕することも、日々の仕事でさえもキリスト者の表現であり、信仰告白である。
キリスト者の存在それ自体が信仰告白である。
そのような生き方をしたいものである。
『超越信仰』
①エリヤの記録(列王17章-)は、主が彼を隠された時期と、群衆の前に現せられた時期とのコントラストが顕著である。(列王上17-19)命をかけて主を証しなければならなかった。
②パウロの証 (第1コリント1:18-25/ローマ1章)
③主の言葉は?
「だから、人の前で私を受け入れる者を、私もまた、天にいます私の父の前で受け入れるであろう。」(マタイ10:32)
迫害の時代に生きるキリスト者へのチャレンジである。
④罪の告白
第1ヨハネ1:5-10
詩編32:1-5
[考察]告白と清めについて
ダビデの告白?
ネヘミヤ1:8-9
⑤建物としての教会は信仰告白であると言ってもよい。
しかし、建物が逆にキリストを証しない場合がある。
⑥信仰告白としての主の祈り、使徒信条
⑦信仰告白としての聖餐式
只今レントの期間に、キリストの十字架が表現しているものが何かあらためて考察しよう。
ピリピ2:4-11 / マタイ27:45-54 マルコ15:33-39 / 変貌 ルカ9:26-36 / ルカ23:32-49 (十字架上の七言)