◎ライトハウスバイブルアカデミーは、今年4年目を終わります。
証と伝道に役に立つ学びを目指してスタートしました。
しかし始めの願いとは異なり、主の御心を探し求める学びの交わりが形成されました。
ですから教師と生徒という関係ではなく、アカデミーの交わりの友と言う形で、今日まで続けられてきました。
旧約聖書の窓から見るイエス・キリスト、新約聖書で示されたキリスト、そして私たちの信仰の目で見るキリストをさらに明らかにしていきたいと思います。
私たちは伝える前に、どういうお方を伝えるのか? どのように伝えよと言われているのか? 聖書から学びとらなければなりません。
◎今月のテーマ『再び信仰について』
「さて信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11: 1)
「信仰がなくては、神に喜ばれる事はできない。なぜなら、神に来るものは、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである。」(ヘブル11: 6)
ここで聖書は、「望んでいる事柄」や「神を求めること」の意味を問うています。
創世記のアブラハムは、もっと素晴らしい都、豊かな家庭、たくさんの子供たちを期待したのでしょうか?
偶像のはびこるカルデヤのウルから出て、約束の地カナンを目指しました。
旅立った75歳から生涯の最後の175歳までの間、100年間の信仰の旅路は、神の御心に従って生きる、神の国に住むものに変えられる、100%神のものとなると言う、さらに高い次元の信仰の旅路でした。
私たちも、伝道者であるとか、長年クリスチャンであったとかと言う事は全く意味のないことで、より近く神と共に歩むことのステップに過ぎないということに気づかなければなりません。
その意味でアブラハムの信仰から、信仰の成長について学ばせていただきましょう。
1)ライトハウスの標語「天星浜砂」(創世記22: 17、18)について。
2)それぞれに与えられた。2019年の御言葉を紹介してください。その言葉の意味、背景、そのメッセージをまとめてください。
3)「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」に表された聖書全体の流れを展望します。
4)「約束の成就」と言う聖書の流れの中で、イザヤ42:1-4の御言葉をどのように捉えるべきか?
5)感謝聖餐式
朝祷誌原稿「預言の成就」
聖書イザヤ書42章1~4節
ライトハウス自由が丘チャペル牧師
小田彰
今日、私たちは預言の成就を信じて聖書を読んでいます。
また旧約聖書の預言の成就として新約聖書を読んでいます。
更に聖書の預言の成就を信じて福音を語っています。
聖書は神の言葉ですから、必ずその預言は成就するはずです。
そこに私たちの信仰の根拠があります。
私は、ヘンデル作曲メサイアの研究を長年して参りました。
1741年8月、ヘンデルが作曲をしたとき、神の霊感によって24日間でこの大曲を仕上げることとなりました。
しかしその歌詞は、15歳年下のシェイクスピア研究家であったジェネンズによって提供されました。
当時ロンドンでは、ユダヤ教的知識人が力を持っていました。
ですから、旧約聖書とその後に、新約聖書を合わせて、教会で聖書として用いていることに対して不満がありました。
ましてや、旧約預言のメシアが、新約のキリストであると認める事は出来ませんでした。
知識人の間では、メシアはキリストであると言う神学は教会の誤りであるとまで言われたのです。
それに対してジエネンズは立ち上がり、ヘンデルに作曲を依頼し、英国全土にメシアはキリストであることを立証しようとしたのです。
ですから1743年にロンドン公演がなされて以来、批判の逆風を浴びることとなります。
さて、現在の私たちも、成就すべき預言の言葉として聖書を読んでいるかが問われています。
祈りは三つの種類に分けることができます。
第一は感謝、賛美、嘆願です。
第二は宣教的意味における執り成しです。
第三は預言の成就を待ち望む祈りです。
いずれも神の約束の言葉を信じて祈るのです。
聖アウグスティヌスは、深い悔い改めの後、恩師アンブロシウスに、最も深く研究すべき書物は何かと尋ねました。
すると、その答えは「イザヤ書」でした。
神の恵みについて、旧約聖書の中でこの書物ほど、はっきりと見解を示しているところはありません。
この書物は「イザヤによる福音書」とも呼ばれ、またイザヤは「福音を伝える第五番目の者」とまで言われています。
40章から66章は、一般的に第二イザヤと呼ばれていますが、慰めのメッセージに満ちています。
「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
彼はもろもろの国びとに道をしめす。
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ42:1~4口語訳)42章で語られている主の僕は、直接的には選民イスラエルのことです。
しかしマタイ福音書の記者はイエス・キリストのことを指していると断言しています。
キリスト教会はその見解を今日まで受け入れてきました。
「これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、『見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。
わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
異邦人は彼の名に望みを置くであろう』。」(マタイ12:17~21口語訳)預言の言葉は、過去、中過去、現在、未来、と言う4つの時制で読んでいかなければなりません。
主イエス・キリストは、諸々の国人に道を示します。
(イザヤ42章1節)。
その働きは静かに、着々となされます。
折れそうな葦を折ることなく、消えそうな灯心を消すことなく(2、3節)、一見してキリスト教会が弱体化したように見えたとしても、衰えることなく、落胆することなく、着実にその道を全世界に確立します。
「海沿いの国々はその教えを待ち望む」(4節、口語訳)。
海沿いの国とは、まさに日本のことではありませんか。
全ての人が、福音を待ち望んでいるのです。
この預言の言葉を握って祈り続けていきたいと思います。