2021.1.24

テーマ「至聖所に向かって」

聖書  詩篇28:1-9

 

「私があなたに向かって助けを求め、あなたの至聖所に向かって手を上げる時、私の願いの声を聞いてください。」(詩篇28: 2)

コロナ感染拡大が収まらない中で、寒い朝ではありますが変わらない思いで礼拝を捧げましょう。引き続き詩篇を学んでおりますが、毎回新しい発見をいたします。

 詩篇25.26.27に続いて28篇も、サウロ王の迫害の中で書かれた詩篇であると思われます。神様はダビデを選び、彼に試練を与えることを通して彼を訓練し、その心の中から詩篇を残させたということは不思議なご計画です。

 「至聖所」と「油注がれた者」という2つの言葉がこの詩篇の中の特別なことばです。至聖所はユダヤ教の天幕の最も奥の部屋であり、それは後の神殿の最も聖なる部屋を意味しました。大祭司のみが神と会うために作られた部屋です。たとえいかに優れたダビデであってもその部屋に入ることができません。しかし幼い頃から羊飼いをしながら神様との交わりの時を持っていた彼にとっては、ユダヤ教のしきたりなどは関係はなかったと思います。しかし今苦しみの中で、自分を清めて、へりくだって跪き、神様の最も深いところに手を差し伸べて祈らねばならなかった彼の真剣さをここに発見します。

 新約聖書ではイエスキリストの十字架こそ至聖所です。そして多くの聖書説教者たちは「至聖所」こそ私たちが試練を通して入ることができる神との交わりの世界であると解釈してきました。人生における試練や迫害がなければ、私たちは決してひたすら祈り、神の御助けを求める事はしなかったでしょう。

 「主はその民の力、その油注がれた者の救いの砦である」(28: 8)

ダビデは確かに預言者サムエルによって油注がれ、密かに選ばれたのですが、まだ王様とはなっていませんでした。しかし神の御手があり、彼が選ばれたものであることを確信していました。今試練の真っ只中にあって神に選ばれている「使命感」が彼を強く奮い立たせたのでしょう。私たちが過去に洗礼を受けたという経験だけでは、本当に試練の真っ只中にあって神の御助けを確信することはできないかもしれません。何度も何度も山を越え谷を渡りながらひたすら祈り求めてきた信仰の歩みの中で、聖霊の油注ぎをいただいて、初めて「神共にいます。神は我が砦だ」と言うことができるのでしょう。

 今週も様々な不安や恐れが心を襲う時、神の御懐深く祈りましょう。必ずや平安と力を得ることができるでしょう。主の守りをお祈りしています。

小田 彰