2021.10.24

テーマ「心をこめて備えよ」

聖書 第二 コリント 9章1〜5節

 

おはようございます。今週も神の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

 

「……私が言った通り準備していてもらいたいからである……それをしぶりながらではなく、心を込めて用意していてほしい」(第二コリント9: 3.5)

 

既にお話しした通り、伝道者パウロは、困窮しているエルサレム教会を支援するために幅広く募金を集めました。そして今コリント教会にも募金のすすめをしています。その任務を託されたのは、忠実な同労者であるテトスと2人の人でした。この3人を送る理由を述べています。「私は兄弟たちを促して、あなた方のところに先に行かせ、以前あなた方が約束していた贈り物の準備をさせておくことが必要だと思った」(9: 5)

と言う事は、パウロはコリント教会の人たちの準備ができていない、あるいは気持ちが冷めていることを予測しているような文面です。だから今度行った時に準備ができていないために私たちを失望させないようにしてほしいと言っているのです。

 

さてこのような伝道者パウロの言葉は、今日の私たちにとってあまり楽しい話では無いのですが、実はそのメッセージは聖書全体が私たちに語っているものなのです。

それは単に献金の問題だけではなく、信仰生活の全般において、初めの熱情が覚めてしまい、献金も献身も奉仕も気持ちがついていかないということがよくあるからなのです。

詩篇の中でダビデは

「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです。あなたの鞭と、あなたの杖は私を慰めます」(23: 4)と言っています。羊飼いである主が、彼の人生を試練という鞭によって正しく導いてくださったのです。

黙示録第2章で、エペソの教会についてこう言っています。

「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」(2: 4.5)

 

信仰生活の初歩において、罪の赦しを確信して感動に満たされ、毎日賛美の歌が口にあふれ、聖書の御言葉を熱心に読み、証していた日々がありましたが、いつの間にかその喜びが失われ、献金も、奉仕も、礼拝出席でさえも億劫になってしまうことがあります。それは私自身もそういうことがありました。「初めの愛」に立ち返らねばなりません。

パウロは「しぶりながらではなく、心を込めて用意してほしい」と強く言ったのです。

彼はあたかもマラソン選手の監督のようです。私たちの信仰生活も、スピードが落ち、感動が失われたときに、監督であるイエス様が鞭を打たれることがあります。「言った通りに準備しなさい」と言われるのです。

コリント教会を責める資格はありません。私たち自身が燃えやすく冷めやすい信仰者ではないでしょうか。

 

「準備する」(Prepare)事は聖書全巻のメッセージなのです。

「荒野に主の道を備えよ」(イザヤ40: 3)メシヤの到来の備えです。

「エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているが良い」(使徒行伝1: 4)聖霊降臨の備えです。

 

クリスチャンライフは常に備える生き方です。

①信仰生活の備え(礼拝のためにも奉仕のためにも証の為にも)

②人生の終末の備え(一生神の栄光を表して終わるために常に備えなければなりません)

③世界の終末の備え(再臨の主にお会いするために、自らを清め、祈り、宣べ伝えなければなりません。)

 

「万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を謹んで、努めて祈りなさい」(第一ペテロ4: 7)

 

パウロがコリント教会の人たちの心を見抜いたように、神様のみ前に、心の備えをして歩んでまいりたいと思います。そこに大きな祝福の源があります。

今週も神の恵みが豊かにありますようにお祈りしています。

小田 彰