テーマ「わが足の滑る時」
聖書 詩篇38:1-22
詩篇38篇はダビデの8つの悔い改め詩篇の中の1つです。
悔い改めの詩篇とは6、25、32、38、51、102、130、143篇です。
この詩篇を通してダビデは大変重い病によって苦しんでいる中から、神を呼び求め、信仰によって救いを見出したことを証しています。
「主よ、あなたの憤りをもって私を責めず、激しい怒りをもって私を懲らさないでください。
あなたの矢が私に突き刺さり、あなたの手が私の上に降りました。」(38:1、2)
5節には「私の傷は悪臭を放ち、腐れただれました」と書かれています。
人が近寄りがたいほど醜い病のどん底にいたのでしょう。
「わが友、我が輩は私の災いを見て離れて立ち、我が親族もまた遠く離れて立っています」(38:11)
まさに友達や家族までが離れていったという精神的にはどん底の状態に陥りました。
そしてその病や不幸の原因が自分の過ちではなかったかと自問自答しています。
深く罪を意識し神の前に悔い改めているのです。
この出来事が実際彼の生涯のいつ起こったかについてはサムエル記や列王記においても語られていません。
「しかし、主よ、私はあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそ私に答えられるのです」。(38:15)
人生には不可解なことが多くあります。
しかし主が答えを下さるのです。
それを待ち望む人は幸いです。
さて本詩篇の冒頭に「記念のために歌ったダビデの歌」と書かれています。
記念とは忘れないためにと言う意味です。
しかし誰に対して忘れないためにと言っているのでしょうか。
自分自身でしょうか。
国民でしょうか。
ヘングステンベルグという神学者は、それは神ご自身であると言っています。
神様どうぞ私のこの苦しみを忘れないでくださいと言っているのです。
自分の過ちに気づき、無力さに打ちひしがれる時、初めて主を礼拝するものとなります。
そこから、宣教的奇跡が生まれるのです。
さて今日は復活顕現日と言われます。
イースターの夜に主イエス様にお会いできなかったトマスに、8日目にイエス様は再び現れてくださいました。
そしてご自身の体の傷を示し、「信じないものにならないで信じるものとなりなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。
トマスは現代人のように実証的な人です。
証拠がなければ信じられないという人です。
多分彼はイエス・キリストの兄弟の中の双子の男の子の1人だと言われています。
ですから十字架にかけられた兄が、復活して今自分の前に現れているお方と同一人物であると言うことを信じられなかったのです。
彼が出会った人は自分の兄イエスではなく、復活したキリストであるということに気づいた時「我が主、わが神よ」と叫びました。
自分の不信仰という大きな過ちを通して真の救い主を見出した彼の告白でした。
トマスはインドにまで伝道して殉教したと言われています。
両手両足を切断され血だるまになって転がった彼の姿が、今日の赤いだるまになったと言われます。
自分の愚かさに徹底的に気づいたとき、神は新しい力をお与えになり、奇跡を見させてくださるのです。
ダビデもまた詩篇38編で自分の弱さを知り、自分の罪を知ってひたすら神により頼んでいました。
それ故この経験は今日まで記念として覚えられているのでしょう。
主の守りと導きをお祈りしています。
小田 彰