テーマ「キリストの香り」
聖書 第二 コリント2:12〜17
第二コリント2章12節からの手紙は、ダビデが人生の試練に遭遇したときにひたすら神に祈り、勝利が与えられて感謝の詩篇を書いたように、パウロの感謝詩篇と言うことができます。
「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつも私たちをキリストの凱旋に伴い行き、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところに放って下さるのである。私たちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストの香りである。」(2コリント2:14、15)
パウロはこの感謝の詩の中で3つの言葉を用いています。
①「感謝」すべきかな
②キリストの「凱旋」
③キリストを知る知識の「香り」
彼の感謝は「しかしハレルヤ」と言うような大胆な表現です。よほど落胆していたのでしょう。祈りつつも祈りの答えが見えない不安にさいなまれていたのでしょう。祈りの答えが与えられたときに「たとえどんなことがあったとしてもすべて感謝」という表現になりました。
ここで凱旋と言う言葉が使われていますが、勝利の歌をもって帰還するという意味です。ローマの将軍が敵地で勝利して、多くの捕虜や分捕りものを持って祖国に帰還する時、町中の人々が賛美の歌を歌い、歓呼の叫びをもって迎えます。祈りが天に届く時、神は私たちをキリストを将軍とする凱旋行進の中に導いてくださるという意味です。
ローマ時代の凱旋行進においては、あちこちの神殿で香が焚かれ、花が撒き散らされ、匂い袋がまかれ、さながら香りの大フェスティバルのようであったと推察されます。パウロはその光景を思い出して、イエスキリストに連なる行列は、キリストの香ばしい香りで満たされると表現したのです。
旧約聖書においては香りは神への捧げものでした。家畜を殺し祭壇で焼いてその香りを天に捧げたのです。新約聖書では、イエスキリストご自身が十字架の上で犠牲となったことによって、香ばしい香りを神に捧げてくださいました(エペソ5:2)。罪の女がイエスの足元に高価な香油を注いだ記事は、彼女の感謝と献身の証でありました。その香りは部屋いっぱいに満ちたのです。(ルカ7:36〜50)
しかしパウロはここで「香りとは福音である」と言っています。凱旋の行列から放たれる香りを受け取ったものは救われ、拒絶したものは滅びるという大胆なメッセージを語っているのです。その人々の運命を、生か死へ分ける重大な責任を伝道者が担っていると証しています。
さてこのパウロの大胆な感謝の賛美の前に重要なキーワードがあります。
「兄弟テトスに会えなかったので、私は気が気でなく、人々に別れて、マケドニアに出かけていった」(2:13)。口語訳聖書は「気が気でなく」と訳し、新共同訳聖書は「心の不安を抱いたまま」と訳し、新改訳聖書は「心に安らぎがなく」と訳しています。エペソから船でトロアスに移動し、そこでテトスと会いたいと願ったのに、なかなか来てくれないので、大事な伝道を放棄してマケドニアに行き、心休まる間もなくやっとテトスと再会したことがこの背景にあります。大伝道者らしからぬ焦りと不安の中にあったパウロが、やっと見出した平安の中でこの歌が書かれました。
私は大指導者であったパウロが、内心これほど焦り、不安に陥っていた事は私たちにとっては慰めでもあると思います。人はそのように弱く不安定なものです。しかしひたすら祈っている中で「しかるに感謝すべきかな」と感謝の言葉が出てきたのです。
今週も現実生活の中で落胆や焦りがあるかもしれません。しかしそこから立ち上がって感謝と勝利の賛美を捧げるができますように、祝福をお祈りしています。
小田 彰