2021.6.27

テーマ「義を宣言する務め」

聖書 第二 コリント3:4〜11

 

今日のテキストは、伝道者パウロが旧約的律法主義と新約的福音主義との違いを明確に語っている部分です。

 「神は私たちに力を与えて、新しい契約に仕えるものとされたのである。それは文字に仕えるものではなく、霊に仕えるものである。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(3:6)

 

 ここで言う文字とは、モーセによって与えられた十戒から始まる律法の言葉です。ユダヤ人は石板に刻まれた言葉によって縛られてきました。本来神が恵みの言葉として与えたのですが、人間はそれを盾にとって罪を裁く道具としました。それが律法主義の死の務めです。

 しかし聖霊は、キリストの十字架愛を示し、赦された者として、自由に神に仕えることを教えて下さいました。義と認められる事は単に赦されることだけではなく、神の栄光のために働く者とされると言う意味です。これが義を宣言する務めです。

 エルサレムから来てコリント教会を指導しようとした人々は、ユダヤ教のしきたりと福音とを混合して導こうとしました。それに対してパウロは、ユダヤ教的しきたりは古い契約であって、もうすでに新しい契約に変更されたのであるから無意味だと語りました。今日私たちの社会生活においても、町内や学校や職場や近所付き合いの中で古い約束事に縛られて自由になれない現実はしばしば見出されます。福音に生きるものは信仰理解が明瞭でなければなりません。

 律法主義は裁き、福音主義は赦す道と言っても過言ではありません。パウロはコリント教会を愛と義による交わりとして純粋性を保ちたいと願いました。

 私は30歳の時、英国から帰国して横浜清水が丘教会の伝道師となりました。礼拝説教を終えて玄関で初めて来られた方と握手した時、1人の弁護士さんが「ありがとうございました。救われました」と突然言われたのです。次の日曜日にはお母様がご一緒されて、「大変ありがとうございました。救われました」と言われて驚きました。私は何の指導もしていませんし、直接会ったこともない方だったのです。ただ説教の中で「キリストと共に死ぬことが、キリストと共に生きる道だ」といったように覚えています。この弁護士さんの家族はお父様がなくなり、相続問題で親族会議の真っ最中でした。長男であり弁護士てあった彼は当然指導力を発揮しようとしました。しかし兄弟は今までにない利権争いとなり、お互いに深い傷を負っていました。その日、自分の権利を放棄し、自分が死ねば、みんなが生きると感じたのでしょう。次の親族会議でご自分の権利を全て放棄し、他の兄弟たちに任せると宣言したのです。しかし兄弟たちはびっくりして「兄さんも入って平等に分けましょう」と言うことになったらしいのです。赦すこと、与えること、自己犠牲を甘んじて受ける事が救いとなると言う考えはまさに福音主義であります。イエスキリストが模範を示されました。

 法曹界に入ったなら最高裁判所長官となることが最高の栄光でしょう。しかしそれは罪を裁く権威なのです。クリスチャンは罪を許し、義とし、人を生かす権威を与えられていますから、さらに勝る栄光の務めなのです。

 この御言葉が与える豊かな恵みがあなたと共にありますようにお祈りいたします。

小田 彰