2021.9.12

テーマ「信仰の純粋性」

聖書 第二 コリント6章14節〜7章1節

 

 前回、伝道者パウロはコリント教会の人々に心を開いていますとアピールしています。そして次回、「私は責めるつもりでこういうのではない。私はあなた方を大いに信頼し、大いに誇っている。」(7:3.4)と言っているのに今日の箇所では、

 「不信者と、釣り合わない軛を共にするな。だから彼らと分離せよと主は言われる」(6:14、17)とまで言っているのです。

 これは本来第一コリントの前の手紙で書いた文章がここに挟まったのではないかと言う議論の由縁です。しかし今日まで、第二コリント6章のこの部分は改定されずにきました。

 とするならば、和解のために腰を低くし、語りかけながらも、信仰の純粋性については決して譲ることのできない峻厳な言葉を語っていると思われます。

 一般的に人間関係における和解において、お互いが謙虚になり相手を認め譲り合うことがその条件でしょう。しかしクリスチャンとして、信仰によって語っているのか、それとも人間的な利害関係や権力関係によって語っているのかについて、鋭く突っ込むこともまた正しい解決のためには必要なのかもしれません。十字架の縦軸は神と人との関係、横軸は人と人との関係を意味すると言われます。横軸をいつまでも語っていると問題が解決しませんが、神と人との関係を深く吟味することによって、本当にへりくだって祈ることができる場合があります。

 

 そこで結論としてパウロはこうアピールしています。「肉と霊との一切の汚れから自分を清め、神を恐れて全く清くなろうではないか」(7:1)信仰を持って以来お互いは、「生ける神の宮」であります。ですから言葉においても、行動においても、このような議論する場合でも、神の子供たちにふさわしい振る舞いをしなければならないのに、コリントの新しいリーダーたちはそうではなかったようです。

 16節後半から、パウロは旧約聖書を引用しています。レビ記26:12、エレミヤ31:33、イザヤ52:11、イザヤ43:6などから次のように言っています。

「私は彼らの神となり彼らは私の民となる。だから、彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ私はあなた方を受け入れよう。そして私はあなた方の父となり、あなた方は、私の息子、娘となるであろう。全能の主が、こう言われる。」

 クリスチャン同士の和解は妥協ではなく、真理に基づいた神に対する服従なのです。

「キリストとベリアルと何の調和があるか。信仰と不信仰と何の関係があるか。神の宮と偶像と何の一致があるか。」(6:15、16)と問いただしています。イエスキリストの宮清め(ヨハネ2:13以下)を思い出してください。柔和なイエス様が神殿で商売をする人々に鞭を振ったのです。聖なる礼拝の場に世俗の商売を持ち込んだことに対する怒りでした。

 パウロは「あなた方の議論は本当に祈りと信仰から出たことですか?」と聞いているのですね。

 

 「その中を出よ、主の器を担うものよ、己を清く保て。あなた方は急いで出るには及ばない、また飛んでいくにも及ばない。主はあなた方の前に行き、イスラエルの神はあなた方のしんがりとなれるからだ」(イザヤ52:11、12)

 今日、社会全体がざわついているように感じます。多くの議論が山積していますが、落ち着いて、静まって、祈って待ち望まなければならない時ではないでしょうか。私たちは本当に神の前に信仰を持って立っているだろうかと。静寂の祈りの中に私たちは神の御心を伺うべき時です。己の心をよく吟味して、神の光の中に行動すべき時ではないでしょうか。

 今週も神の御言葉があなたを導いてくださいますようにお祈りしています。

小田 彰