テーマ「心を開いて」
聖書 第二 コリント7章2〜4節
「どうか、私たちに心を開いてほしい。私たちは、誰にも不義をしたことがなく、誰をも破滅に陥れたことがなく、誰からも騙し取ったことがない。私は、責めるつもりでこういうのではない。前にも言ったように、あなた方は私の心の内にいて、私たちと生死を共にしているのである。」(7:2、3)
パウロがコリント教会のおもだった人々と心を開いて話し合い、和解したいという思いを切々と伝えようとしていることがわかります。彼は日夜弟子達のことを思っていたのです。人々の救いを願って「思う」ことの恵みについて考えてみましょう。
同様の表現が6:11、12、13にもありましたね。
「どうかあなたがたの方でも心を広くして、私に応じてほしい」(6:13)
冒頭の「私たちに心を開いてほしい」は英語欽定訳では"Receiveus"「受け入れて欲しい」と訳されていますが、ギリシャ語では「コレサテ」(場所を作って下さい)と書かれている珍しい箇所です。
コリント教会の人々が、パウロ先生とはもう話す余地がありませんと言う態度であったのでしょう。それに対してぜひ私と話す場所を作ってくださいと願ったのです。
さて2000年の間この聖書の部分が変更されることなく保たれてきた理由は、神ご自身の御心であったのでしょう。
現代は人と人との心が閉ざされている時代と言われます。メールで通信しても、用件のみで、決して心を開いていないのです。世の中の仕組みが次第に血の通った心の触れ合いを拒否しているのですね。それは神と人との関係においても、感動の少ない、知的触れ合いのみで終わってしまうことが多くなっています。聖霊による感動によって心が解放されるという恵みを失っているのです。
イエスキリストの誕生の物語において、マリアとヨセフがベツレヘムに着いた時、彼らを迎える部屋がなかったと書かれています。人類は世界の救い主を迎える場所を用意しなかったのです。それは神の語りかけを拒否したということです。
ルカによる福音書15章の放蕩息子の例え話の中で、遠くに行って、財産を使い果たし、食べるものもなく死を目前にしていた息子が、やっと父の元に帰ってきた時、
「まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りより、その首を抱いて接吻した」(ルカ15:20)
と書かれています。父は息子のことを毎日思って農場の入り口で待ち望んでいたのでしょう。父の息子に対する思いがよく表れています。息子に「心を開いて帰ってほしい」という祈りであったのでしょう。
さてあなたの心は忙しさのあまり閉ざされていませんか?
あなたの心は自分のことでいっぱいではありませんか?
人の悩みや苦しみや助けの声に耳を傾ける時間と気力がないのではありませんか?
あなたの心の中に人の救いを祈るスペースがありますか?
神の御心を思う場所を用意しましょう。
それがあなたの祈りです。そしてあなたが祈る祈りは、いつの日か天国に行ったときのあなたの住まいを広げることになるでしょう。
ご聖霊があなたの心を感動し、揺さぶって、心を開いて下さいますようにお祈りいたします。
小田 彰