「信望愛主」
テーマ「モーセが見た 神の み業」
聖書 へブル 11章27〜29節、出エジプト記 12章29〜42節
前回信仰とは、「神の御手に振り回される事である」と言いましたが、まさにモーセの生涯は神の強烈な力によって振り回され、しかしその使命の前に必死で立ち続け、結果的に大いなる神の御業を見る人生でした。孤独なシナイ山で、エジプトのパロ王の前で、紅海を渡り、荒野の40年で、神がいかなるお方であるかを知らされました。
モーセに関する聖書の記録は、新約聖書の3分の1にも及ぶ文章量です。ですから短いお話でそれを伝える事は困難ですが、ヘブル人への手紙の記者は端的に書き残しています。
「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は見えない方を見ているようにして、忍びとおした。」(ヘブル11: 27)
当時のエジプトは科学技術においても、建築においても、文化宗教においても世界最高の巨大国家でした。その王宮の中で王子の1人として育ったわけですから、それは捨てがたい価値でした。奴隷民族であり田舎者の集団であったユダヤ人であることに気づき、しかし選ばれた神の民であることを選択し、エジプトを立ち去ったのです。
○「彼は、見えない方を見ているようにして、忍びとおした。」
この言葉がモーセの一生を端的に表現しています。エジプトを出てミデアンの平原の羊飼いとなりました。
モーセの生涯は120歳ですが40年ごとに分割することができます。
(40歳まで)エジプトの王子として。自分はひとかどの人物であり、むしろ他者よりも優れているというプライドに満ちた40年でした。
(80歳まで)ミデアンの羊飼いとして、無力で、貧しく、誰からも評価されない孤独な思索の40年でした。
しかしそこで神の声を聞いたのです。
(120歳まで)自分の力は無力であるが、神の絶大な力を信じて、使命を果たす戦いの40年でした。
第3の40年は出エジプト、紅海渡河、モーセの十戒、幕屋の完成、そしてカナンに旅する民族のリーダーとしての人生でした。
しかし、彼がどんなに偉大な事業を成し遂げて、イスラエル民族の土台を作ったとしても、シナイ山で「燃える柴」の中から神の声を聞き、神の前に跪いたあの神との交わりがなければ、すべての事は不可能だったのです。
○モーセが見た神の御業は、あの燃える芝の中に臨在した神ご自身との出会いだったのです。それは彼が最も無力を感じ、未来に対する不安を持ち、何のプライドもなくなって、空っぽの心であったからこそ、神は現れてくださったのです。
自我に死に切った時、神は人を用いられるのです。
「信仰によって、滅ぼすものが長子に手を下すことのないように、彼は過越を行い、血を塗った。」(11: 28)
80歳でエジプトに戻り、国王パロにイスラエル民族の解放を求めました。十の不思議な奇跡を行い、ついにパロは、イスラエル人を解放することになります。いよいよエジプト全土の長子を神の剣が行き巡って殺そうとする時、イスラエルの人々が羊の血を柱と鴨居に塗った家の前は「過ぎ越された」と記録されています。
「その血はあなた方の居る家々で、あなた方のために、しるしとなり、私はその血を見て、あなた方の所を過越すであろう」(出エジプト12: 13)
○モーセは自分の指導力やカリスマ性で国王の心を動かしたのではないことを知っていました。なぜなら滅ぼすものの手から免れたのは「小羊の血」によったからです。これは後に現れる神の御子イエス・キリストの十字架の血潮によって、私たちが罪の世から解放されることを預言しています。
モーセの物語は、罪に満ちたこの世(エジプトの奴隷生活)から、キリストの十字架の血潮(過越の血と紅海渡河)によって救われる福音を暗示して
いるのです。
○さて私たちの人生も、この世の様々な雑事から目を離し、神ご自身の光に目を向けるときに、新しい力と勝利ある人生が始まるのだということを確認しましょう。そしてあなたの顔が常に神の栄光によって輝き続けることができるように祈っています。
「しかし主に向くときには、その覆いは取り除かれる。主は霊である。そして主の霊のある所には、自由があ る。」(第二コリント3: 16、17)
小田 彰