2022.10.23

「信望愛主」

テーマ「エリコの勝利」

聖書 へブル 11章30節、ヨシュア記  5章13 〜15節、6章12〜21節

 

「信仰によって、エリコの城壁は、7日にわたって回ったために、崩れ落ちた。」(ヘブル11: 30)

 

前回までモーセの信仰を学びましたが、彼の全生涯を扱うことはできませんでした。しかしその信仰は後継者ヨシュアに引き継がれました。

 

イスラエル民族の旅は北のカナン方面に向かい、死海の北東、モアブの平野からヨルダン川を超えてカナンに入ります。モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂上へ登りました。「こうして主の僕モーセは主の言葉の通りにモアブで死んだ」(申命記34: 5)と記録されています。

 

ヨシュアはモーセの使命と信仰を受け継ぎカナンに向かいます。かつてモーセが紅海を2つに分けて渡ったように、ヨシュアはヨルダン川を2つに分けて渡るのです。ヨルダン渡河の次に、最大の敵エリコが待っています。それは高さ10メートルの二重の城壁によって囲まれた、当時としては巨大な町でした。あたかもモーセがエジプトのパロ王と対決した時のようです。

 

このエリコの勝利が意味するものは何でしょうか。(ヨシュア記5.6章)

①モーセの信仰の継承

40年の荒野の旅を通して、彼らは神に従うことを学びました。また律法や幕屋によって礼拝することを学びました。しかし不可能にチャレンジしていく信仰は、体を鍛えるようなものであって、経験の積み重ねによってしか獲得することができません。今ヨシュアはその信仰の訓練を受けているのです。

○現代に当てはめて語るならば、礼拝堂もできました、牧師館もできました、ある程度給料ももらえるようになりました。人数も増えて教会もいろいろな催し物ができるようになりました。信徒も仕事が祝福され生活が豊かになりました。しかしそれは信仰では無いのです。常に神の導きに従って、不可能と思われる山をも征服していくスピリットがなければなりません。私たちも単なるキリスト教徒ではなく、信仰を持った集団であるべきです。

 

エリコの戦いを前に、彼の前に1人の人物が現れました。その手には剣があります。

 

すると主の軍勢の将はヨシュアに言った「あなたの足の靴を脱ぎなさい。あなたが立っているところは聖なるところがである」。ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア記5: 15)

これはかつてモーセがシナイ山で燃える柴を見たときに聞いた言葉でした(出エジプト記3: 5)。 その時以来モーセは見えるものにではなく、あの柴の火の中から語られた神の声を意識し、神の臨在の中に歩みました。御使いは今ヨシュアに現れ、「靴を脱げ、そこは清い地だから」と言われました。そしてヨシュアも神の臨在の中に歩む者となりました。

 

②常識的に不可能なことにチャレンジするために、非常識な信仰を持つべきであること。

○このような信仰者の生き方は、現代の私たちにも必要であり、なくてはならないものです。

 

③ 6日間の沈黙の行進でした。エリコの城壁の周りを、声を出すことなく、沈黙の祈りを捧げつつ6日間回ったのです。7日目には7周回り、祭司たちのラッパの音とともに民は叫びました。すると城壁が崩れ落ちたと書かれています。(ヨシュア記6:20)

このエリコの城跡は発掘されています。瓦を積み重ねたような城壁は、外部からの強い攻撃の後もなく崩れ去っています。それが地震であったのか、あるいは他の特別な出来事であったのか、分かりませんが奇跡的に劇的に町は崩れていきました。少なくとも城壁の中にいた人々は、ヨルダン川を分けて近づいてくる敵が、沈黙の中に城の周りを回っているのを見たとき、すでに勝敗は決まっていたのです。彼らの心は恐れおののいていました。

 

④「ヨシュア」のギリシャ語読みは「イエス」です。イエス・キリストがサタンの壁をぶち壊し、私たちを救出してくださる福音の雛形です。

 

○現代に生きる私たちも、形式的にクリスチャンであっても、そこそこに教会の奉仕をしていたとしても、いざと言う時に「不可能を可能にしてくださる神を信じ、挑戦していく信仰」がなければ単なる宗教的団体に過ぎないのです。

 

使徒パウロはエリコの勝利を知っていたでしょう。そこでこう言いました。

「私たちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。」(第二コリント10: 3.4)

 

それは信仰であり、祈りであります。今週も神の力強い御手があなたの歩みを後押ししてくださるように祈っています。

小田 彰