「信望愛主」
テーマ「モーセの選択」
聖書 ヘブル 11章23〜26節、出エジプト記 2章1〜10節
アブラハムから始まった信仰の流れは、イサク、ヤコブを経て、ヨセフの住むエジプトに展開します。しかしヨセフの後、今までの王とは違う、種族の王が立ち、次第に成長拡大するイスラエル民族に対する圧迫が強くなります。今日のテーマであるモーセが出現するまでに約400年が過ぎました。一般的には200万人から300万人にまで人口が増加したと言われています。
なぜ神は、選民イスラエルを育てるためにこのように旅から旅へ移住させたのでしょうか?
その答えは「神の転地教育」と言うことができるでしょう。生まれ育った環境に浸ったものは、血縁地縁が強く、なかなか神のみに寄り頼む信仰が育たないのです。どこかで「離れる、捨てる、去る」経験を通らなければ、神様にだけ従っていく信仰は成長しません。
アブラハムを族長とする一部族が、この400年の間に、後のイスラエル国家の基礎を作り上げることができたのです。そのためには時間と試練が必要でした。
私は今日の結論をまず申し上げましょう。信仰を持って生きる時、しばしば「神がなぜこのようなことをなさるのかわからないこと」があります。また言葉を変えて言えば「信仰とは神の御手に振り回されること」であります。旧約聖書の偉大な人物たちも、それぞれの局面においては必ずしも正しい、清い、聖なる判断をしたとは限りません。多くの過ちや失敗を犯しました。しかし神に捉えられ、振り回され続けたのです。そこで信仰が鍛えられてたわけです。
さてモーセの父アムラム、母ヨケベデは、元気に生まれた息子の可愛さに感動しつつも、国王の男子殺害命令の前に恐れおののいていました。信仰と勇気を持って、大胆にもパピルスで編んだ籠にその子を入れて、王女が水浴する岸辺に流したのです。それが「両親の選択」でした。パロの娘は子供に恵まれていませんでした。幼児を取り上げ、名前をモーセ、「水から引き出されたもの」と名付けて王宮で育てました。
「信仰によってモーセは成人した時、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝に勝る富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである」(ヘブル11: 24 -26、出エジプト記2章参照)
もちろん迫害の時代に苦しむクリスチャンたちを励ますためにヘブル人の手紙が書かれました。ですからモーセが試練の道を選んだように、初代クリスチャンたちもあえて試練の道を選ぼうと語っているのです。そこにこそ天国の報いがあると宣言しています。
ここでモーセがキリストとともに試練の道を「選んだ」ことが大事ですね。
私たちの日々の生活においても、自分を優先し安全な道を選んでしまうことがあります。しかし日々の選択が大事です。人生の節目節目において神を第一とする選択が大事です。どこかで世俗的なものを捨てること、離れること、そして御言葉に従うことが大事なのです。そこで初めて未来を開き、永遠の命に至る恵みを蓄えることになるのです。
「今知らず、後知るべし」(ヨハネ13: 7)とイエス様は最後の晩餐でペテロに言われました。旧約聖書の信仰の偉人たちは、必ずしも永遠の未来を見ていたかどうか分かりません。ただ神の言葉に従う戦いを勝ち抜いたのです。その結果後のイエス・キリストの誕生、そして全世界に福音が伝えられるという神の計画が実現することになります。
「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。」(ルカ9: 23)とイエス様は言われました。
あなたの今日の選択が未来の輝きをもたらしますように祈ります。
小田 彰