「信望愛主」
テーマ「主は振りむいて」
聖書 ルカ 22章47〜62節
4月10日はパームサンデー(棕梠の日曜日)です。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。それはゴルゴタの丘の十字架に向かう決意の入城でした。受難週を共に過ごしますが、一日一日主の足跡に従ってまいりたいと思います。
ペテロ第一の手紙を書いた初代監督ペテロは、若き日、イエス・キリストとの3年半の交わりの最後に主を裏切るものになってしまいました。最も期待し信頼し従ってきた主イエスが捕らえられた時、彼の心は元の生活、漁師の過去の生活へと引き戻され始めました。神の国の聖なる住人ではなく、この世の罪の世の人々との生活へと引きずり込まれていきました。しかしそれを引き止めたのはイエス・キリストの「まなざし」でした。
○主は振り向いてペテロを見つめられた。その時ペテロは、「今日鶏が鳴く前に、三度私を知らないとは言うであろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外へ出て激しく泣いた。(ルカ22:61.62)
ペテロの性格は衝動的で熱情的ではあるが、しばしば瞬間的に臆病者へと変わり、多くの失敗が記録されています。
ゲッセマネの園でイエスを捕らえに来たユダヤ教の指導者たちに対して、剣を持って大祭司の耳を切り落としたことがありました。(ヨハネ18: 10)大胆で勇気ある行動のように見えましたが、主が捕らえられると、突然臆病になってしまいました。
①ペテロは遠くからついて行った。
②焚き火の周りに集まった人々の中にペテロも座った。(しばしば私たちも信仰が弱ってしまい、神の恵みから離れ始めた時、自分の周りの人々に近く、人々と共にいることが良いことのように正当化し、神の光から離れてしまうことがあります。)
③ 一人の女の告発に対して「私はその人を知らない」とキリストの弟子であることを否定してしまったのです。
④「あなたもあの仲間の一人だ」と言われると「いやそれは違う」と否定し
⑤「この人もガリラヤ人だから」と言われると「あなたの言っている事は私にはわからない」と答えてしまいました。(信仰生活が不鮮明になり、無力になり、神様との距離が遠くなり始めたときに、私たちは「自分がわからない」とつぶやくことがあります。)
とうとう三回イエスを知らないと裏切ってしまったのです。神と共にあるべきものが、ますます遠く離れてしまったとき、彼には屈辱の涙しかありませんでした。ゲッセマネの園で「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。(22: 46) あの時も、頭ではわかっていても体がついていかなかったのです。
このようなペテロが生まれ変わったのは「イエスのまなざし」のおかげでした。「イエスは振り向いてペテロを見つめられた」のでした。それは非難と軽蔑の目ではなく、愛と赦しの目でした。 ルカは47節でイエスを売るために近づいて接吻しようとした裏切り行為を記録しています。
ユダは最後の晩餐の時から、イエスの視線を避けていました。そして自殺の道を選びました。ペテロも裏切り者でしたが、イエスのまなざしの中にいたのです。
「そして外へ出て、激しく泣いた」(22: 62)それは焚き火に集まっていた人々の輪から外へ出たと言うのではありません。焚き火にあたりながら神の恵みの中から出てしまい、もはや神の恵みを受けることができない絶望的な暗闇に陥っていたのです。
私たちが神の恵みから遠ざかってしまう時、それが教会であれ、信仰の友人たちからの距離であれ、その都度自分を正当化しながら、結果的に恵みの外に陥ってしまうのです。ですから一刻一刻キリストに近づいていく努力をしなければなりません。それは信仰の戦いです。
ロシアの政府の答弁を聞いていますと、1つの嘘をまた2つ目の嘘で塗り固めていくような愚かな姿が見えます。自分の信仰をはっきりと表す事は、知識や学問は要りませんが、勇気が必要です。
この物語を通し、受難週のイエス・キリストの歩みを通し、あなたの信仰の総点検をしてくださるように願います。
悪魔が吠えたけるししのように私たちを攻撃しようとしています。しかし光の中を歩み続けることができますように心からお祈りいたします。
小田 彰