「信望愛主」
テーマ「その方はここにはおられない」
聖書 ルカ 24章1〜12節
イースターおめでとうございます。
礼拝の中で召天者記念の時を持ちます。
既に召された方々とともに、再び賛美する日が来ることを期待しましょう。
ルカによる福音書は、復活の朝の女性たちの心の動きをよく表現しています。
彼女たちの愛情とイエス様を丁重に葬りたいと言う思いは良いのですが、この世の常識で主に近づいていったのです。
「女たちは…墓に行った。ところが石が墓から転がしてあるので、中に入ってみると主イエスの体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていた」(24:1〜4)
主は、「必ず復活する」と予言していました。
その通りになったのですから感謝すべきですが、途方に暮れてしまったのです。
私たちはしばしば神の御業を期待し、奇跡をも祈ることがありますが、そうなるとは、実は信じていないのです。
墓の中に2人の人が現れて言いました。
「あなた方は、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
その方は、ここには居られない。
よみがえられたのだ。」(24:5、6)
主は既に有限と罪悪の世界から、無限と聖なる世界に移されたのです。
復活を受け止めるには、目で見て、手で触って確認するような世界のものではないことに気づく必要があります。
物質の世界ではなく人格の世界で捉えるべきなのです。
愛することや信じる事は、目で見、手で触れることができません。
しかしその愛と信頼という確信に基づいて家庭が築かれ、人間関係が前進していきます。
結婚は最も顕著な例です。
計算できないものを、最も確実な人生の決定の基盤としているのです。
それではイエス・キリストは復活を心で信じなさいとだけ言われたでしょうか。
復活の夜弟子たちに現れ、トマスには傷口を触らせました。
ただ復活の姿は今までの次元とは違うことだけは確かです。
そして信仰によって受け入れるべきであります。
目に見えない触ることのできない信仰ではありますが、復活の信仰を持つことによって全く違う行動が現れ、その結果全く違う世界が築きあげられるのです。
今ウクライナを苦しめている戦争は、目で見えるものしか確認しない、物質的で領土的な誤解から脱出できない人たちの仕業なのです。
ヨハネによる福音書11章で、ラザロが死に、姉のマルタと妹のマリアが嘆いている姿があります。
しかしイエス様は言われました、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうとあなた方に言ったではないか」(ヨハネ 11:40)と。
復活を信じていない人の悲しみと、信じている人の栄光がコントラストになっています。
またイエス様は言われました、「私はよみがえりであり、命である。私を信じるものは、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じるものは、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11:25、26)
かつてロシアの共産党の大会でキリスト教の批判がなされました。
約1時間にわたってキリストの受難や復活が否定されました。
しかし1人の老人が演壇にかけ上って「主はよみがえられた」と叫んだのです。
群衆が立ち上がって「主はよみがえられた」と叫び、一瞬にして1時間の論説は否定されてしまいました。
今日のロシアにもこのような隠れた信者たちがいることを信じ、神の御助けを祈ります。
今日、イースターのこの日、復活の信仰が与えられますようにお祈りいたします。
小田 彰