「信望愛主」
テーマ「イエス彼らの中に立ち」
聖書 ルカ 24章35〜43節
イースターの夕刻、2人の弟子がエマオという村へ向かっていました。
イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いていかれ、夕暮れ時だったので一緒に泊まろうとしていました。
「パンを取り、祝福して裂き、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった」(24: 30、31)と記録されています。今日はさらにその続きの物語です。
その結果2人は、夜道にもかかわらず、急遽エルサレムへの坂道を登りました。そして弟子たちと合流して、自分たちが見たこと、復活のイエスに出会ったことを語ったのです。
①こうして話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。そして「安かれ」と言われた。(24: 36)
弟子たちには恐れがありました。戸惑いがありました。疑いがありました。そこにイエスがお立ちになったのです。不安や恐れの中にある私たち自身の生活の中にイエス・キリストが現れてくださいます。その時私たちの不安は解消され、信仰が与えられるのです。
②「私の手や足を見なさい。まさしく私なのだ。触ってみなさい。霊には肉や骨はないが、あなた方が見る通り、私にはあるのだ」(14: 38、39)
私たちが金銭的な問題や、人間関係の問題や、自分の病の癒しの問題や、将来の不安の問題にさいなまれている時、具体的に数字で示して助けを求めようとします。しかし目で見、手で触れる助けがあっても、心から信仰を持つことができず平安は来ないのです。
彼らは喜びのあまりまだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。(24: 41)
嬉しいけれど、まだ信じられないのです。目に見えるものに触れたとしても、まだ心には完全な平安と納得がないのです。イエスはそこで焼いた魚のひときれを食べたと書かれています。
ここに「復活の体」と言うテーマがあります。イエス・キリストの復活の体は、将来私たちの復活の姿でもあります。
扉が閉まっているにもかかわらず、すっとお入りになりました。忽然とお姿が消えたり、エルサレムから70キロも離れたガリラヤ湖畔に忽然と現れることがありました。手で触れることもできましたが、また霊的な存在でもありました。普通の体のようであって普通の体では無いのです。
さてイースター以来復活のテーマを語って参りましたが締めくくらなければなりません。
………神様はあなたが持っているすべての質問にことごとく解決を与える必要がありません。また私たちの人生の全ての問題の答えを必要としていません。「神はあなたが理解するよりも信じることを期待しています」(JHマック)
やがてあなたは理解できなかったことの中に神の栄光を見ることがあります。
今日ウクライナに起こっていることについても、何故かという問いに答えは与えられていません。しかしまもなくその意味がわかる日が来るでしょう。
主イエスが再び地上に来られ、私たちは復活してみ前に立つ時、復活の姿がルカによる福音書に書かれていたようになっていることに気づくでしょう。
5月3日にウクライナ支援メサイアコンサートを開きますが、作曲者ヘンデル自身の人生に、イエスがお立ちになったのです。1741年8月22日の夕方、友人のジェネンズから送られた歌詞の第1ページ「Comfort ye 」が彼の心に神の言葉として光を投じました。健康を害し、不評にあえぎ、経済的行き詰まりを感じていた人生最悪の日にメサイア、イエス・キリストは彼の心にお入りになって、わずか24日間で3時間に及ぶ膨大な曲を書き上げさせたのです。それから280年以上経って私たちの心も癒し、力づけ、希望に満たす音楽となったのです。
未だ解決を見ない問題の中にあっても、主イエスがそばにいらっしゃいますから、必ず最善に導かれるのだと信じることができたら幸いですね。神の祝福をお祈りいたします。
小田 彰