「信望愛主」
テーマ「いのちの道」
聖書 使徒行伝 2章22〜28節
使徒行伝第二章はペンテコステの出来事から始まり、ペテロのはじめての説教に続いて、多くの人々がバプテスマを受け、世界宣教が始まったという大変膨大な内容の記録です。
今日の部分はペテロがユダヤ民族にとって最大の王であるダビデの預言を引き出して、キリストが預言の成就としてこられた事を語っています。
「このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのである」(2: 23)とはっきりと述べています。信仰を持つお互いにとっては、どんな小さい事でも、偶然は無いのだ、神のご計画の中にあるのだと教えられます。
ペテロは旧約聖書詩篇16篇8-11節を引用しましたが、そこに聖霊の働きによる大きなテーマが隠されています。
「私は常に主を私の前に置く。主が私の右にいますゆえ、私は動かされる事は無い」(16: 8)とダビデが書いていますが、
「私は常に目の前に主を見た。主は私が動かされないため、私の右にいて下さるからである」(2: 25)とペテロは語りました。
「置く」から「見る」に変わっています。これは大きな聖霊の働きです。
ダビデは忠実な僕であり、神を第一として仰いで行こうと努力していました。
しかし現実的な様々な問題の中で、神に近づき、また離れ、信仰に立ち、また落胆しました。これは私たちにもあることです。バプテスマを受け、教会生活を真面目に果たし、献金や奉仕においても積極的に努力していても、まだ体の内側に聖霊の内住を経験せず、内にいますキリストの支配の中にないのです。しかしこれはほとんどのクリスチャンがそうであるかもしれません。
ペテロ自身も3年半キリストと共に歩み、素晴らしい経験をし、神の栄光を見ましたが、肉の思いや恐怖心に翻弄されました。しかし今聖霊を受けたペテロは大胆に「主を見た」と語ったのです。
あなたは日々イエス・キリストが心の内に住み、共に歩み、共に喜び、共に歌い、導かれていると感じていますか?
私の個人的体験から、「見る」経験に至るために必要な事は賛美であると思っています。キリスト教的教育を受けても、この心の内から盛り上がり、溢れ出る賛美には至らないのです。しかし繰り返し繰り返し、聖歌を歌ううちに「神の臨在」を実感したのです。
ダビデも「それ故、私の心は楽しみ、私の舌は喜び歌った」(2: 26)と賛美の経験を述べています。
宗教改革者マルチンルターは「私は祈ることができない時、いつも歌う」と書いています。
使徒行伝16章25節で.ピリピの町で迫害を受けたパウロとシラスは、傷ついた体を横たえることもできず、真夜中頃祈りつつ、それが賛美に変わり、高らかに歌い続けました。「ところが突然、大地震が起こって、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった」(16: 26)賛美の中に神の御手が動いたのです。
主の復活を信じられなかったマグダラのマリアに、イエス自身が現れてくださいました。マリアは「イエスを見た」のです。ペテロや弟子たちがどう言おうと、はっきりと見た彼女の確信は揺らぐ事はありませんでした。
「信じる、学ぶ、努力する」から「見る、触れる、仰ぐ、内住する」に変わるために私たちの信仰の目標をそのレベルにセットする必要があります。理屈抜きでイエス様との交わりの中に生きる人となられますように祈ります。
ただこれはキリスト教信仰の最も本質的な奥義と言われる経験ですので、祈り深く求めていただきたいと願っています。
「いのちの道」を歩まれますようにお祈りいたします。
小田 彰