「信望愛主」
テーマ「約束の地を望み」
聖書 ヘブル 11章13〜16節、創世記 23章1〜6節、17〜20]節
ヘブル人への手紙11章は、信仰の偉大な人物の記録ですが、今日のテキストでは、私たちの信仰のあり方、あるいは人生観を表現しています。それは単にクリスチャンがというよりも、聖書の言葉により頼んで生きる人々の人生観といったら良いと思います。それは神の導きによって、与えられた人生を誠実に全うしようとする使命の道です。
「これらの人は皆、信仰を抱いて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言い表した。」(ヘブル11: 13)
ここでは単にアブラハムのことだけではなく、その前のアベル、エノク、ノアのことも指しています。
ヘブル人への手紙の著者はわからないと申し上げましたが、新約聖書の迫害の時代に生きるクリスチャンたちに、信仰によって生きるという事は、地上のことにとらわれず、きたるべき神の国へ行く希望によって生きることを勧めています。
「約束の地を望んだアブラハムの信仰」について箇条書きで申し上げましょう。
①「国籍は天にあると言う信仰」です。それは見えるものにではなく、見えないものを慕い求める信仰です。
「しかし私たちの国籍は天にある。」(ピリピ3: 20)
②「旅人、寄留者と言う信仰」。
アブラハムは相当な人数の一族を連れて旅をしていました。周辺の人々からは尊敬され「神のような人」とまで言われました。しかし、定住し、街を築き、城を建て、子孫を拡大していくような財産を求めませんでした。天幕の生活を継続して、次の旅に備えました。創世記23章で、妻サラの死に際して、彼女を葬る場所を土地の人々に求めた記事があります。「私はあなた方のうちの旅のもので寄留者ですが、私の死人を出して葬るため、あなた方のうちに私の所有として一つの墓地をください」(23: 4)と言っています。必要最小限度の所有に徹していましたね。
これは今日の私たちの生き方にも示唆を与えています。もちろん地上の生活は家を建て、多少の財産を蓄積する事は誰にとっても許されている事ですが、いつでも、捨てること離れることを心に留めておかなければなりません。後味の良い生き方をしたいものです。
③「使命の道」です。
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にある故郷であった。」(11: 16)
インドの聖女と言われたマザー・テレサはある時ジャーナリストに尋ねられたそうです、「なぜこんな酷暑の、世界最悪の生活環境の中で奉仕を続けられるのですか?」。それに対して彼女は「主イエス様が私になせと仰せられたことをしているだけなのです」と答えたと言われています。
それが使命に生きる人生ですね。
「使命と言うものは、自ら買って出て担うものではありません。それは生かされているところで誠実であろうとする生き方です。それは何かすると言うよりは、担わされるという受け身のことであり、避けることをしない誠実な生き方です。簡単に言えば、今ある様を誠実に引き受けて逃げないことです。」(藤木正三牧師の言葉)
アブラハムはカルデアのウルから旅立ち、約束の地カナンに向かいましたが、その土地を得ることが目的ではなく、神に従い、神のご計画によって生きることが目的でした。その延長線上に、神の国が存在したのです。
④キリスト者の信仰とは「神の約束に不動の信頼を寄せること」です。そして人類の本当の故郷、神の都を目指して進むことです。
⑤この信頼すべきお方を「神」と言い、信頼を「信仰」と言うのです。
今日クリスチャンとなると言う事は、洗礼を受けて教会の信者の一員となると受け止められています。いわゆる会員となるわけです。しかし今日の聖書は、神の都を目指して進む巡礼者たちの群れに加わることと言っているのではないでしょうか。
エリザベス女王が召されました。私は英国国教会の牧師となりましたが、エリザベス女王が直轄するオールソールズ教会の牧師でありました。多分英国全土に28教会あると思います。それは英国国教会の監督下にはなく、女王の監督下にある独立した教会の群れでした。その意味において、女王は組織のトップでした。しかし国民は彼女が支配者と言うよりも、従順に「使命を果たしている人」と受け取って愛していたと思うのです。エリザベス女王は25歳で就任しましたが、彼女が望んだ事と言うよりも、神より与えられた責任として受け取ったと思います。そして9月8日、天に召されました。私は個人的に深い悲しみと感慨深い思いを感じています。
私たちの人生もまた、与えられた道、与えられた現在というものに感謝して誠実に取り組んでまいりたいと思います。
神の祝福と平安がありますようにお祈りいたします。
小田 彰